理想の夫婦愛・祖父が祖母に宛てたラブレターと夫婦の生涯

4年前に祖父が亡くなりました。
祖母は本人の希望により施設に入居し、気ままな生活を送っています。

90歳を目前にした祖母は祖父が亡くなった頃から、物忘れがひどくなってきました。
単身赴任で祖母宅に世話になっていた叔父や、祖母を世話していた私の母は変化を敏感に感じて、「少しボケが入っているのかも」と噂していました。

そんな祖母が孫の私に「写真が入った缶を探してほしい」と言ってきました。
施設に持っていかなかった荷物に、それが残っているというのです。

写真が入った箱には、少量の写真と、祖父からのラブレターが多数入っていました。

祖父が祖母に宛てたラブレターと夫婦の生涯

祖父の生い立ち

私の祖父は第二次世界大戦時、中学生でした。
米軍機に狙い撃ちされて逃げたり、東京大空襲を経験しています。

戦争が終わって間もなく両親を亡くしました。
両親は保険金を遺しましたが、それも周囲の大人にだまし取られました。

一文無しになった祖父は姉と二人で、戦後の混乱期を生き抜けなければなりませんでした。

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祖父は「男子たるもの、女子を守らねば」という意識を強く持っていました。
大人に大金をだまし取られたことから人間不信になりましたが、姉と身を寄せ合って支え、奨学金で大学を卒業します。

造船会社に就職した祖父は、職場に協力会社として出入りしていたある男性と知り合いました。
その男性は後に妻となる私の祖母の父親でした。

祖母の父親は祖父の真面目な仕事ぶりを気に入り、娘と引き合わせました。
祖父と祖母は惹かれ合い、若くして結婚に至ります。

順調に思えた結婚生活でしたが、祖母の父が亡くなった後に、多額の借金が遺されていることがわかりました。
祖父は祖母と共に働いて、借金を完済します。

その後日本に好景気の波が押し寄せました。
祖父は造船の会社で役職に就き、バリバリと仕事をこなしました。

家族を連れて国内を転勤して回り、海外の単身赴任もこなします。

収入は右肩上がり。
転勤が多かったので自宅の購入は晩年になってからでしたが、流行りのゴルフ会員権なども購入して、余裕のある生活を送りました。

祖父は討論が好きでした。謙遜をせず、歯に衣着せぬ物言いをしました。
年齢による差別感情が薄い人でしたので、部下とも討論をよくしていたようです。

周囲は祖父を酸いも甘いも知った「芯が強い人」だと捉えていました。

祖父は酒が好きでした。休日にはウイスキーのロックを片手に、家の用事を済ませます。
酒を飲んで陽気になることはあっても、悪酔いはありませんでした。

しかし心臓が悪く、何度か酷い発作を起こしました。
定期的に診察や検査を受け、服薬を続けました。

酒は身体によくありませんでしたが、祖父の酒好きは祖母や親戚たち皆が知っていましたので、一日の酒量を制限するに留めて、誰も止めませんでした。

定年退職後の祖父母

定年退職後、祖父は時間を持て余しました。

毎日が休日のようになり、酒量が増えました。
祖母は家事の手間と祖父の酒を止める手間が増えて、夫婦喧嘩が増えて行きました。

祖父はあまりある時間を、趣味に費やすようになりました。

パソコンが普及したころでしたので、パソコンと攻略本を購入して勉強し、使いこなしました。
無線通信の資格を取ってイベントに参加したり、三味線と歌を習って練習をしました。

祖母と老人会に加入して、飲み会やカラオケも楽しみます。
家電の手入れや家庭内のイベントの準備は若い頃から祖父がしていましたが、さらに料理を学び始めました。

心臓の調子は決して良くありませんでしたし、発作を起こすこともありましたので、カテーテル手術や通院の頻度が増えました。
通院に加えて趣味が増え、忙しい日々を送りました。

老人会の仲間が「定年退職をしてから本を読むこと以外に何もすることがない。早く逝きたい」と漏らす中、やりたいことがたくさんある私は幸せ者だと、祖父は語りました。

祖父母の三人の子どもはとうに結婚して、子ども(私や私のいとこ)を育てていました。

祖父母の第二子で唯一の娘である私の母は、夫婦仲が良くなく暴力沙汰が珍しくなかったために、祖父母によく心配をかけました。
母は気性が激しいところがあり、第一子である長兄の妻と折り合いが良くありませんでした。
長兄の妻も少々難しい気性だったために、20年もの間、長兄一家と祖父母は連絡を絶つことになりました。

断絶のきっかけとなったのは、何の相談もなく長兄妻の両親と同居する家を契約して、事後報告だったにも関わらず祖父母に多額の援助を求めてきたことでした。祖父母は釈然としないまま援助をしたものの、入居後も中々招かれることがなく、暫くしてやっと招かれた時にも長兄妻に無視に近い扱いをされたとのこと。

第三子である次男(私の叔父)は官僚で、全国を転勤して回りました。その妻は人当たりが良く、祖父母と安定したコミュニケーションをとっていました。

長兄夫婦と関係が絶たれると、祖母は末の息子に「何かあったら世話になる」と言うようになりました。
しかし叔父には、長兄を手厚く育ててきた祖父母に不満があったようです。(学費等は差別なく出していました。どのような差があったのか、私は知りません)

叔父一家は、子どもが中学に上がるのを前に、妻の実家がある地方に家を買いました。
以降、叔父は単身赴任で全国を回るようになります。

退官が近くなると都内勤務が増えたために、関東にある祖父母宅に世話になりました。
叔父としては年老いた両親を心配して、同居した方が良いと思っていたようです。

しかし祖母は、「次男(叔父)が同居すると家事の手間が増えて疲れる」と、孫の私や私の母に度々溢しました。

祖父の死

祖父は80代中盤に差し掛かると、目に見えて弱って行きました。
毎日大量の薬を飲み、二日に一度病院に通う生活にも疲れていました。

酒を飲む意欲が薄くなり、食べ物の味がしなくなりました。

結婚して出産した私が子どもを連れて遊びに行くと、その日だけは食事量が増え、酒も口にしました。
しかし普段は殆ど食べ物を口にしなくなり、みるみる痩せて行きました。

病気もありましたので、「生きるのが辛い」と溢すこともありました。
そして「俺がいなくなったらお前どうするんだ」と祖母に言いました。

最後の2~3年は、気力だけで生きているように見えました。
「妻(私の祖母)を一人にさせたくない」という思いだけで支えられているようでした。

祖父母は「子どもたちに迷惑をかけないように、温かい時期に逝きたいね」と話していたと言います。

そうして祖父は87歳の2月のある日に亡くなりました。心筋梗塞を起こしましたが、本人が治療を拒否してのことでした。
通夜と告別式は、2月というのに暖かい日でした。

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祖父が頼ったもの

祖父と祖母は、若い頃から年を取っても、腕を組んで歩く夫婦でした。

祖母は祖父に守られていました。
法的な書類や光熱費等も主に祖父が管理していました。

祖母は長年経理の仕事をしていましたので数字に弱いわけではありませんが、精神的にも物理的にも祖父に頼った生活だったのです。

祖父が亡くなる直前に、私は祖父の元を訪ねています。
祖母は明らかに祖父が亡くなることを怖がっていました。祖父が亡くなった後の身の振り方を考えつつも、一日でも長生きしてほしいと願っていたのです。

祖父もそれがわかっているから、精神力で何年も生きたのでしょう。

祖父の葬儀や相続等の処理が済むまで、娘である私の母が祖母を手伝っていました。
祖母は同居している叔父を頼りませんでした。

叔父は祖母の宛てどころのない愚痴を聞きませんでしたし、助言を求めても「こうするべき」と最善の案を一方的に言うだけで、祖母の気持ちに寄り添わなかったからです。

祖父が亡くなる数年前に長兄の妻と子ども(私の伯父の妻)が突然家を訪ねてきたことがありました。これをきっかけに長兄夫婦と断絶状態ではなくなりましたが、祖母は相変わらず長兄の妻を嫌っていました。(伯父に黙って、アポなしで訪問してきたのがまた解せなかったよう)

頼れるのは息子より娘だと思った祖母は、私の母と同居することを希望します。

祖母の娘とその夫である私の両親は、不仲です。
長期休暇に祖父母宅に世話になっているときも暴力沙汰の酷い喧嘩を繰り広げ、多大な心配をかけました。

母は気性が激しいですが、父もまた異常とも思える癇癪持ちです。私は幼い頃から両親との関係に悩んで育ち離婚を勧めるも、なんだかんだと理由をつけて別れないので、早々に家を出ました。母は父へのストレスを私に当たって晴らしていましたので、私の居場所がなかったのです。

祖母がそんな両親と一緒に暮らせるのか、疑問に思いました。
喧嘩が激しい二人と暮らすと大変なこと、辛い思いをするかもしれないと祖母に伝えましたが、祖母は娘と新たな家での暮らしに夢を馳せて、舞い上がっていました。

私と母は相性が良くありませんでしたが、母と祖母は問題がないのかもしれないと思い、これ以上言えることはないと見守りました。

このころ、私は不思議な夢を見ました。
何か違う夢を見ていたはずなのに、パッと白い世界が広がりました。

そこには祖父と、祖父が昔飼っていた犬が現れました。
祖父は私に「じゃ、行くわ」と言って、背後に見えた強い光の中に消えていきました。

祖母を心配していた祖父が、祖母の行き先が決まったことで安心して、ついに成仏したのだと感じました。
非常に印象的な夢でした。

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祖父が祖母や家族に弱音を言った話を聞いたことがありませんでした。

おしゃべりな祖母からも、そんな話を聞いたことがありません。

祖父は何を支えに生きたのだろうと想像しました。

祖母の行く先

私の実家は一戸建てですがリビングが二階にあり、足が悪くなっている祖母を迎え入れるにはふさわしくありませんでした

また近所とのトラブルもあったので、母は引っ越しを希望していました。父は単に新しいものが好きなため、「引っ越しをしたい」という思いがありました。しかし金銭的な余裕がありません。

祖母と同居をするなら、祖父母宅に両親が引っ越すのが一番経済的でしたが、叔父がいますし、父が妻の父が建てた家に住むことを嫌がりました。

祖母は資産を持っていますので、両親は祖母の援助を期待して、新たな家を探し始めました。
期待した通り、祖母の多額の援助を受けて新居を購入。引っ越しをしました。

先に私の両親が入居しました。

祖父母宅から上質な家具や家電がこち込まれることを期待して、両親は多くの物を処分していました。
それを聞いた祖母は、早く新居に移る方が娘夫婦のためになると思い、引っ越しを急ぎました。

予定より数か月早く同居が開始しました。

単身赴任で祖父母宅に同居していた叔父は、そのまま祖母が退去した家に住み続けました。
主だった家電が持っていかれて不便したようです。祖母に施設に入ることを勧めていたのに、不仲で知られている姉(私の母)夫婦との同居をあっという間に決めてしまったことにも、不満を持っていました。

神経質で癇癪持ちの私の父は、祖母との同居が大きなストレスになりました。
真冬だったにも関わらず祖母が暖房をつけることを禁止して、電気代を毎日チェックするようになりました。

テレビの音量が大きいと逐一注意して、祖母は持ち込んだテレビを見られなくなりました。見ていたのは私の両親だけ。
自費で取り付けたエアコンも、持ち込んだヒーターもつけることを許しませんでした。
庭に生えていた雑草の花を摘んで祖父の仏壇に供えた時も、勝手に花を摘むなと怒りました。

祖母は毎月決まったお金を渡していました。
電気代や食費に充てるためです。計算上では不足するとは思えない額でしたが、祖母のせいで出費がかさんでいると、母は不満を募らせました。母は自分に都合のいい嘘をつき事実と思い込む癖がありますので、これもそうだったのだと思われます。

相変わらず夫婦喧嘩は激しく、祖母は終始身を縮こまらせて暮らしました。

父は祖母の存在によりいつもよりさらに不安定になっていましたので、母のストレスが溜まりました。母はその矛先を祖母に向けます。祖母が母の精神的なサンドバックになったのです。そこは幼少期から家を出るまで、私が担わされたポジションでした。

祖母は母について、「あの子はおかしい。狂ってるとしか思えない」と私に言いました。
私もずっと思っていたことでしたので、納得しました。

その他祖母から聞いた両親の所業は、全て“やりそうなこと”でした。私が経験してきたことだからです。
高齢な祖母への、虐待そのものに感じられました。

祖母から聞いたことを踏まえて母に是正を求めましたが、お得意の「私は悪くない。私は被害者だ」という泣きわめきに遭い、埒があきませんでした。

同居は僅か3か月で終了しました。

祖母は叔父が一人で住んでいた祖父母宅に戻りました。
私の両親は当初家を出ることを反対しました。家の援助金を返還しなければならないと思ったからです。しかし祖母が返さなくてよいというと、あっさり認めました。

祖母は私の両親からされたことを周囲に話しましたが、叔父を始めとした親戚は鵜呑みにしませんでした。私の両親が問題のある人だということを知っていますが、それでも信じられないほど、ひどい内容だったからです。

叔父は祖母の話を全て信じたわけではありませんでしたが、良くない目に遭わされたのは確かだと捉えて、姉である私の母に怒りを募らせました。
そして祖母に施設の入居を勧めました。

祖母はかつて施設入居を嫌がっていましたが、娘夫婦との同居で痛い目を見て考えが変わったようです。

叔父は以前から良い施設を探して資料を集めていましたので、資産と照らし合わせて候補を絞りました。
そうして祖母は、私の両親との同居を解消して僅か2か月で、施設に入居しました。

私は叔父の妻に電話をかけて、両親の所業を謝罪しました。
祖母の話がほぼ事実であることも伝えました。

伯父も叔父もその妻も祖母も、私の両親へ強い怒りを持ちました。

反面、怒りはあるが面倒は避けたいとのことで、私の両親と表面上の付き合いを続けると言いました。

私の両親は、祖母がわがままだったと片づけました。
自らを正当化する人たちですので、何を言っても無駄でした。

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祖母の人生と、どうしても手元に持っていたいもの

祖母が入居した施設は遠方のため、飛行機に乗らなければ会うことができません。
そのため祖母とはたまに電話で話す程度の付き合いになりました。

祖母は10代で原爆で被爆しました。
被ばくによる差別と闘いながら親の借金を夫(私の祖父)と共に返して、一生懸命に育てた子ども夫婦にぞんざいに扱われ、逃げるように施設に入りました。

亡くなった祖父は、祖母を見て何を思うでしょう。

祖母は私と電話で話すたびに、私の両親への不満を話しました。高齢な祖母には申し訳ないのですが、私は祖母が私と同じように両親を嫌悪していることに、同士を得たような気になりました。
施設での生活ぶりもよく聞きました。
友人もできて、私の両親と同居していたときよりずっと快適なのだとか。

そんな話を聞いて数年が経った最近のこと。

祖母が「写真が入った缶を探してほしい」と言い出しました。

大事なものが入っている箱で、私の両親と同居した際に持ち込んだのは確かである。祖父が建てた家に戻った時も持ってきたはずだったが、その荷物をそのまま施設に持ち込んだのに箱が見つからないから探している。私の両親の家にあるはずだと言うのです。

祖母は祖父の形見を何も持ってこなかったと聞きました。
それなのに、あの箱だけは手元に欲しいと言いました。

私が両親と会うのは数年に一度です。
箱を探すなら祖母から私の母に聞く方が早いのですが、連絡を取りたくないようです。

そこで私から母に聞くことにしました。

以前はまともに話せないことが多かったのですが、母のサンドバックが祖母になってから、私には柔和な態度をとることが増えていました。

母に会ったのは実に3年ぶりでした。

箱はあっさりと見つかりました。

中には祖母が師範を持っていた日本舞踊の舞台の写真が数枚と、主に手紙が入っていました。

その手紙は、祖父から祖母に宛てたラブレターでした。

祖父から祖母に宛てたラブレターと理想の夫婦愛

若くして祖母と結婚をしていた祖父は、祖母の父が遺した借金を何年もかけて返済をしました。

返済が終わったころ好景気に入り、祖父は子育て中の祖母を日本に残して、数か月単位の海外赴任を何度もこなしました。

どうやら手紙は、日本にいる祖母に宛てて祖父が出したものでした。

数ヶ月単位の短い赴任だったにも関わらず、手紙はいくつもありました。

内容はたわいのない日常の報告でしたが、最後に「愛する〇〇(祖母の名前)」と、短いですが強い愛情を感じる文言がサラっと書かれていました。

それを読んだ私の母は、父親がそんなことを書く人だと思わなかったと驚きました。
私から見た祖父も、祖母を守っている様子はわかりましたが、愛情を口にするイメージが一切ありませんでした。

祖母は形見らしい“物”ではなく、祖父からもらったこの手紙だけを持っておきたかったのだと分かりました。

私が中学生か高校生になるころ、祖母が着物を着させてくれたことを思い出しました。
普段着として着られる着物です。

それは祖母が初めて祖父とデートをした時に着た、思い出の着物でした。

祖母は私に着せた後、祖父に「ねえ、この着物覚えてる?」とキラキラした目で嬉しそうに聞いていたのを覚えています。祖母はいくつになっても少女のようなところがありました。

まだ元気で趣味で忙しくしていた当時の祖父は、口の端だけ少し上げて、「ああ、そうだったかな」と言ってすぐに視線を逸らしました。

早くに両親を亡くした祖父が頼ったのは、祖父を頼る祖母の存在と、愛情だったのかもしれません。

こんな手紙を書いた祖父と、亡くなってもまだ持ち続ける祖母が素敵だと思いました。

愛情で結ばれた祖父母の娘である私の母は、良好な夫婦関係を築けませんでした。

人生ってわからないものですね。

母は「父親がこんなラブレター書くなんて!」と笑っていましたが、祖母が亡くなったら、棺桶に手紙を入れようと思うと言いました。

3年ぶりに会った母は、一泊の滞在中、一度も泣きわめいたり錯乱することはありませんでした。
少しは落ち着いたのか、たまたま発狂しなかっただけなのかはわかりません。

きっとどんな夫婦にも、何かしらの問題が起こるのだと思います。
私と夫も今は良好な関係を築いていますが、離婚危機に陥ったことがありました。

私が生を終える時、私はどんな人間になっていて、夫とどんな関係になっているでしょうか。

できれば祖父母のような関係でいられることを願っています。

祖父母は私の理想の夫婦です。

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