【毒親育ち実例】息苦しい幼少から、体調に異変を来す高校、大学まで

毒親にはいろいろなタイプがあり、軽いものから犯罪に当たるものまで様々です。
親と子の相性の違いも関係してくるでしょう。
これは私が体験した話しです。

毒親家族

私はごく普通の一般家庭で育ちました。
両親が揃った、私と弟の四人家族です。

父は片道二時間以上かけて通勤しており、出勤は早く、日付を超えてからの帰宅が多いため、平日に顔を合わせることはあまりありませんでした。

両親の喧嘩は頻繁でした。
結婚直後から暴力が始まったと聞きましたので、私はお腹にいるころから両親の争いを聞いていたのだと思います。

母に手をあげる父を止めるのは私の役割でした。
父は母と弟に手をあげましたが、私にはあげませんでした。
そのため、母は「あんたばかりがいい思いをしている。」とよく言ったものでした。

父が私に手をあげなかった理由を母が言うには、私は赤ちゃんのころからほとんど泣かず、授乳をすればあっという間に眠りにつき、良く寝て手がかからなかったからだそうです。
弟は特別よく泣く子ではなかったのですが、私があまりにも泣かなかったため、弟の泣き声がうるさいと父は怒り、赤ちゃんだった弟を叩いていました。
そのため、弟が父に怒られるのはあんたが泣かなかったせいだと物心ついてからよく母に怒られました。

両親の喧嘩が始まると弟は委縮していましたので、私が守らなきゃと思っていました。

毒親両親の性質

癇癪持ちの父

父は癇癪持ちでした。手をよく洗っていて、若干潔癖の気があるように思います。
父方の祖母の話しでは、父は小学校のころから学校でもよく手を洗っていたため、担任教師から洗いすぎではないかと注意されたことがあるそうです。

癇癪はいつも突然で、何の前触れもなく起こりました。
それは家族でレジャーに出かけようとした直前にも起こり、そのまま外出せずに終わることもあり、或いは出かけても車中は喧嘩ばかりで私は親の機嫌を伺い、何とか修復するよう努めていました。

父の癇癪はいつもきっかけがわかりませんでした。
突然起こりますし、休日には日に二、三度あり、大抵は両親の喧嘩に突入しました。
父は大きな物音を立てて周囲を威嚇したあと、部屋に閉じこもり、数日間家族の会話がなくなることが頻繁にありました。

好戦的で不安定・支離滅裂な母

母は癇癪を起した父に油を注ぐような発言をよくしました。
なぜ父をそっとしておけないのか、理解に苦しみました。

放っておけば数時間で回復することもあるのに、部屋に閉じこもった父を追いかけ、怒りを増幅させるような発言を繰り返しました。
逃げ場がなくなった父は母に手をあげ、母は時に物を投げ、泣いて喚いて大変な騒ぎとなるのです。

母は友人が殆どいませんでした。保護者のお茶会への参加や習い事は父がダメだと言い、断念せざるを得ませんでした。
父は、母が宅配便の男性と話すのも快く思いませんでした。
この人とこんな話をしたよと父に話すと、「浮気か。俺をだましているんだろう。」と怒り出すので、母は世間話ができなくなりました。

母は感情が非常に激しい人です。人の立場に立って考える想像力が著しく欠如していました。相談をして、否定をされなかったことはありません。全てが勝負になっているようで、大変だった話しをすれば自分の方が大変だったと別の話しを持ち出し、辛い話、痛い話、悲しい話も全て自分の方が大変だったと語ります。そして周囲が納得しないと怒り出し、泣きました。

いつも私が悪いと言われるか、相談には答えずに、全く関係のない自分が大変だった昔の話を持ち出し語ります。
持ち出される話に共通点はなく、また言うことも支離滅裂で理論がなく、矛盾だらけでした。よくわからない理由で始まった説教は、ほぼ毎日のように短くて1時間、長くて3時間続きました。母の標的は私一人でした。

母の思考がおかしい

話がすり替わることは日常茶飯事でした。
困ったことによく記憶を塗り替えているため、母の中で作られたことが母の真実になっているようでした。

人から聞いた話を自分の体験だと思い込んでいたり、自分の発言を人が言ったことだと思い込み、他の人もそう言っているのだから自分の意見が正しいと主張するなどしていて、私はよく混乱しました。
それは母が言ったことだよ、私は覚えているよと伝えても、あんたがおかしいと言われて終わります。

思ってもいない、当然言っていないことを、母は私が言った! と主張して聞かず、私が「言った。」と認めない限り、あんたがおかしいと言い続けられます。

私は一時期、本当に私の頭はおかしいのだと思っていました。しかしある時、証言者が母の記憶がおかしいと指摘しました。
すると母は、嘘だ! と怒り出します。そして思い違いをしたのは自分のせいではないと一生懸命主張し出しました。決して謝ることはありませんでした。

母の感覚

母は裁縫が得意です。幼い頃からスカートなどを作ってくれていましたが、柄や色のセンスがあまりある人ではありませんでした。指示通りに服を着るのが嫌でしたが、喜ぶフリをしました。

母は音や匂いに敏感です。それは父も同じですが、母の方が真冬でも常に窓を全開にするのを見ると、母の方が敏感だと思います。そして片づけができません。
ゴミを捨てることはできます。分別も神経質なほど一生懸命しています。しかし使ったものを元に戻すことができず、物が散乱しています。

私が片づけると、今使おうと思っていたのにと怒ります。新聞や本、居場所が決まっていない書類が床や窓辺や他方の棚に散乱しており、ジャンルも入り混じっていましたので、集めて分別したことがあったのですが、怒られて諦めました。

洗剤やティッシュ、米などを大袋で買い、10~30袋を備蓄しています。量が多すぎて保管場所がなく、廊下などに積み上げられているため、避けて通らなければいけませんでした。そしてやりかけの家事が至る所に置かれていました。

あんたができたから離婚できなかった、あんたのせいで母と弟が不幸になった、あんたの言葉は人を不幸にする、あんたの記憶はおかしい、思い込みが激しい、頭がおかしい。
こういった言葉は興奮した母に言われたものですが、母は言ったことを全く覚えていません。興奮が収まると自分の行動を忘れるようです。

母の中で私は、おかしな言いがかりをつける悪者でした。

風呂に入れない・小学校時代

汗をかいて家に帰るのですが、風呂は二日から三日に一回、着替えも二日は同じ服を着るように言われていました。

同じ服を着て学校に行くと友達にからかわれるので着替えたいというと、「この辺りは農家の人間が多いから毎日着替えて風呂に入るんだ。農家ばかりの県だ。うちは農家じゃないんだから必要ない。」と怒られました。

当時すでに開拓されており、農家を営む家は殆どありませんでした。
母に意見をすると大変な怒り方をされるので、母の言う通りにする他ありませんでした。

小学校の時から学校が長期休みに入るとすぐに、母と私と弟で母方の祖父母の家に泊まりに行きました。祖父母の家では母は怒らず、お菓子もジュースも与えられていました。お小遣いをもらって駄菓子屋に行くこともありました。買う服は祖母と母が決め、私の要望が通ることは殆どありませんでしたが、心地よい場所でした。
祖父は聡明で面白く、祖母は優しい人でしたが、のちに母と揉めることを思うと、母の本質をあまり知らなかったように思います。

『検討』ができない性質・引っ越しと金の工面

私が小学校高学年になるころ、県内に一軒家を購入し引っ越しをしました。
父は広告で見た家を見学し、他物件を全く見ずに購入を決めてしまいました。

もともと住んでいたマンションの住宅ローンも残っていましたので、マンションの売却や一軒家の頭金を母がどうにかするしかありませんでした。
母は母の親に借金をし、充てました。父方の両親は経済的な余裕がないことを知っていましたし、父は自分の両親にいい顔をするため援助の相談もしませんでした。
その割に母の両親に引け目を感じるようで、喧嘩の種になっていました。

母は金の工面について父に文句を言っていましたが、私の記憶では母も引っ越しに前向きだったように感じていました。

引っ越しして数年後、バブル崩壊の影響を受け、家庭の収入は平均所得より落ち込みました。
マンションは値崩れして安い額でしか売れず、金利が高いときにローンを組んだため、返済に苦しみました。
住宅ローンの借り換えという知識は両親にはありませんでした。

両親の喧嘩が益々増えて行きました。

毒親のなだめかた

小学校高学年になったころ、私は両親を“子ども”だと思うようになりました。
自分の怒りをコントロールできず、人のせいにする姿勢に辟易としていました。

父のいない時間、母の逆鱗に触れると数時間正座し、母の支離滅裂な話を延々聞き続けなければなりませんでした。
理屈が通らず、矛盾だらけで、何を言っているのか、何を言いたいのかわからなくなります。
そのうち頭がぼーっとしてくるのですが、時々言葉を求められるので、気を抜いてはいけないと、自分との闘いになります。

二、三時間経つと母の興奮が収まってきますので、それを見計らって母を宥め、母の支離滅裂な話の一部を切り取り、理解を示し、母の気が済むのを待ちました。
或いは、父が帰宅すると途端に解放されました。
父は母のヒステリーな怒り方を嫌っていましたので、母は父の怒りを避けるために、私を拘束していることを隠しました。

私は部屋に戻ると、どっと疲れが出て、一人でよく泣いていました。飼い猫がそばに来て寄り添ってくれるのが何よりの癒しでした。

暴力の心配と弟のストレス

弟は私が母のヒステリーにさらされているとき、日々繰り返される両親の喧嘩のとき、部屋に閉じこもっていました。
次第に両親の喧嘩で母を庇うこともなくなり、私も自分の部屋にこもっていました。暴力の音や金切り声をただ聞いていました。
時々弟は目に涙を溜めて私の部屋に来て、二人で膝を抱えて座り、時が過ぎるのを待ちました。

両親の激しい喧嘩の音がピタッと止んだ時間を控えるようになりました。
どちらかがどちらかを、或いは双方がどうにかなってしまっているのではないかと思ったからです。
翌日の朝、亡くなっていたら、警察に状況を伝えなければいけないと考えていました。

弟が小学生高学年のとき、ストレスによる急性胃炎で入院しました。両親は弟を心配し、何かストレスになるようなことがあったのか聞きましたが、弟は思い当たるストレスはないと話しました。私は両親がストレスの原因だと思いました。

姉弟差別

友人は小遣いをもらっている子が多くいました。

私は母に小遣いが欲しいと頼みましたが、母は子どもには必要ないと怒りました。
時々お年玉から100円を持ち出しましたが、それもばれて叩かれて怒られました。

友人が買い食いをしているとき、私は我慢して待つしかなく、見かねた友人の母がお菓子をくれるのでした。
当時家で出されるお菓子はキシリトール入りのガムとせんべいが主流で、スナック菓子やジュースも禁止されていたため、友人の家で出されると夢中で食べました。

弟は小学校のころからお小遣いをもらい友人と温水プールなどに出かけていましたが、私は一度も許されませんでした。

記憶のすり替え・中学校時代

私は中学生になりました。

母が働きに出始めたからなのか毎日の入浴が許されるようになりました。
毎日入っていいの? と確認すると、そもそも数日に一度など制限をしたことはないと言い出し、あっという間に忘れていました。
母は私のお菓子やお小遣い、外出を制限ていましたが、その時期が終わるとあっという間に記憶が塗り替えられ、忘れていて、私の記憶がおかしいと言いました。

仲の良い友人が数人いましたが、今思えば、私は彼女たちにとっていい友人ではありませんでした。
突然不機嫌になったり、そのくせ家に帰りたくなくて遊びに誘うのでした。
表向きは大人しく目立たない生徒でしたが、不安定だったと思います。父と同じような状態でした。

一度だけ男子同級生と喧嘩になったことがあります。離れた男子を追いかけ、喧嘩を続けようとしました。男子に「しつこい。」と言われ、母親を思い出し、どうしようもなく自分が嫌いになりました。

友人に誰が好きなのかと聞かれ、同級生の適当な人物の名前を言っていました。卒業式後にその人を連れてこられ、告白をさせられる流れとなり、付き合うことになりました。
今思えばばかばかしいことをしたと思うのですが、私なりの社交性だったのだと思います。友人とは中学校を卒業するのと同時に殆ど付き合いがなくなりました。

稼いで母親の機嫌を取る・高校時代

私は高校に進学しました。公立の総合高校の美術科に入りました。公立でしたが通学費や画材代がかかり、両親には学費の苦労をかけました。
両親は教育に積極的でした。弟は県下でトップレベルの公立校に入り、両親は満足していました。

弟は優秀だったため中学校から平均的な額の小遣いが与えられていましたが、私は思うように成績が伸びないという理由で、高校生になっても千円でした。

経済的に苦しいと聞いていましたので、高校に許可を受けアルバイトをしてお小遣いに充て、母に服や化粧品をプレゼントしました。母が笑った顔を見るとホッとしました。

高校は個人主義の子が多く、人付き合いが楽になりました。
グループや陰口もほとんどなく、一人でいても変な目で見られることはありません。
自分の意見を持っている子が多いため、クラスの出し物を決める際に揉めることがありましたが、気持ちを言える場がある、ということが私を楽にしました。

初めての彼氏は被虐待児

初めてできた彼氏は中卒で工場に働きに出ていました。彼は血がつながらない父親とうまくいっておらず、よく殴られていました。家で食事ができないということで、彼の給料から食材費をもらってお握りを作り、渡していました。

彼の家にお邪魔したことがありましたが、足の踏み場がなく、幼い兄弟がおり、勉強ができる環境はありませんでした。

みんな進学しているのにどうして俺は働かなければならないのかとよく不満を言いました。
高校に通う私には、学校をさぼれ、とか、放課後の補講参加を反対してくるようになりました。

仕事が終わると電話をかけてきて拘束される時間が長く、疎ましく思うようになりました。また夜には家に来て、窓から部屋に入ってくることもよくありました。

母は私と彼の目の前で、いつ別れるのかと聞きました。
素行がよくない彼でしたので、母は付き合いに反対していましたが、彼の境遇には同情する部分があり、言葉の割に無理に別れさせようとはしませんでした。

彼の寂しさはよくわかりました。しかし私には彼を受け止めるだけの愛情も器もありませんでした。
別れを告げた日、彼は深夜家に来て、いつものように窓を叩きました。
私は窓に鍵をかけ寝たふりを続けました。彼は割れるのではないかと思うほど強く窓を叩き、一時間ほどして去っていきました。母が音に気付き寝ている私の様子を見に来ましたが、彼には気が付きませんでした。

私には誰かを受け止められるだけの度量がありませんでした。

彼氏との外出は認めていた母でしたが、彼と別れてからは外出しようとすると怒りだすようになり、バイト以外はほぼ家にいるようになりました。
母は、休日は家族と過ごすものであり、外出しようとするのがおかしいと言いました。
弟は自由に遊びに出かけていました。

耳が聴こえない 痛みを感じない

母の意味の分からない怒りは全て私に向けられました。
私は頭がぼーっとすることが増え、視界も白く抜けるようになりました。

ある日気が付くと、耳の聴こえが悪くなっていました。
聴こえるのですが、籠っているというか、鈍く響くように聴こえるのです。
また、痛みを感じにくくなりました。誤って針やカッターで皮膚を切っても、若干の痛みはあるものの、あまり感じないのです。

耳も皮膚も、体全体にテーブルクロスのようなビニールを被ったように感じました。
視界もぼーっとすることが多かったように思います。

雨の日、通学のために利用する市営バスから人が降りていくシルエットが、海がめの産卵のように見え、泣くのをこらえることが何度もありました。
生まれ変わりたいと思っていました。

死ぬつもりで眠る

眠ることが好きでした。眠っているうちは何も考えないで済みます。
眠りにつくときは、いつも死ぬつもりで眠りました。
目が覚めた時は生まれ変わるのだと思うようにしていました。

内臓を洗いたい

春から夏の、湿度の高いむせ返る空気が嫌いで、明け方4時から5時ころに家を抜け出し、自転車をこいで近所を回りました。
早朝の空気が一番澄んでいるように感じていました。その空気をたくさん吸い込んで、もやもやと汚れた自分の内臓を洗いたいと思っていました。

そのうち母親が気づき、危ないからやめるように言いました。
出かけられなくなった私は、よく部屋で文章を書き、絵を描いていました。
飼い猫がいつも寄り添ってくれていて、私の心の支えでした。

飼い猫の首を絞めたい

時々大好きな猫の首を絞めたいと思うようになりました。猫は私に懐いていましたので、そんなことしたら猫が悲しむだろうと想像し、実行することはありませんでした。

この感情は私が大学を卒業し社会人になり、少しずつ自分のことを話すようになって思い出したことです。
思い出した時、なんて恐ろしい考えをしたのだろうと自分が怖くなりました。
猟奇的な殺人事件を起こす罪人はその前に小動物を殺していると言います。私もその手前に立っていたのかもしれません。

自殺願望の芽生え

飼い猫を撫でながら、そうだ、自分が死ねばいいのだと思うようになりました。
母のヒステリーを受け止めながら、死にたいと繰り返し心で唱えるようになりました。

しかし私が死んだら弟は一人になってしまいます。
弟は進学校で日々を楽しく過ごしていました。友人がたくさん出来、繊細な内面とは裏腹に社交性を養っていました。
背丈が伸び、優秀でもある弟に、父は手をあげなくなりました。弟は私の自慢でしたが、心配は続いていました。

はけ口は美術・反抗ができない

私が絵を描く理由は自己表現ではありませんでした。ただ感情のはけ口でした。
高校の美術科は美術大学進学を目標にしており、大学に合わせたデッサンを勉強する姿勢に窮屈さを感じていました。美術科の補講には出ずに、帰宅するようになりました。

家では高校の図書館で借りた虐待のノンフィクション本を読み漁りました。
自分より大変な人がいて、その人が頑張って生きていることが、私の救いになりました。

聞いていた育った環境と祖父母の話しを照らし合わせ、両親の精神分析を始めました。
専門的な知識はありませんので、あくまで想像です。
親になった今になって理解できることも多分にあります。高校生の私が考えられるだけの想像をするようになりました。

私は両親に逆らうことはありませんでした。反抗期もありませんでした。
そんなことをしたら生きていけない、居場所はないと思っていました。

近所からの嫌がらせ

母は匂いに敏感で、廊下やトイレ、洗面所の窓を真冬でも全開にしているため、両親の喧嘩の声は家の中だけでなく、外に漏れ、近所の家に反射して外からも聴こえていました。

近所は両親の酷い喧嘩を知っていたと思います。
裏の家からは雨戸に木を投げつけられ、深夜にいたずら電話をかけられる嫌がらせを受けました。

両親は、裏の家に住む年のいった未婚の息子が夜型の生活をしていて、朝方眠りにつく時間に雨戸をあける我が家が気に食わないのだろうと言いました。しかし確かめることはしませんでした。
実際のところはわかりませんが、我が家の音が一番聴こえていたのは裏の家でしたから、喧嘩や金切り声が年中している我が家に嫌気がさしていたのだろうと想像します。

盗聴器と壁

父は、裏の息子が家を覗いていると頻繁に言うようになり、あまりカーテンを開けなくなりました。それでも窓は全開です。
父は家の境にスチールの頑丈な塀を建てました。
そして家に盗聴器が仕掛けられていると頻繁に言うようになります。

母を助けたい

両親の喧嘩は相変わらず酷く、母親のヒステリーを軽くしようと母の話しを聞くように努めましたが、何時間でも話し続ける母を受け止めきれなくなりました。
しかし一度やりかけたことですので逃げ出すこともできず、近所の悪口、母のパート先の悪口、父への悪口、私への不満、母と弟がいかにかわいそうかを延々聞くことになり、死にたくなりました。

ごくたまに喧嘩やヒステリーを起こすことなく、家族でテレビを見るなどして楽しく過ごすときがありました。すると内臓がもやもやとして、「騙されるな、安心するな、どうせこれは嘘だ。すぐにまたおかしなことになる。」と脳の中で声がしました。
そしてやはり両親の激しい喧嘩が始まると、「やっぱりね。」とホッとするのでした。

私は母に離婚してほしいと頼みました。しかし母はそんなことできるわけがないと言い切りました。母はそんなことより進学を考えるように言いました。

毒親から離れる

両親が離婚しないのであれば、これ以上家に居続けるのは限界だと思いました。
遠方の大学に行きたいと考え、資料請求をしました。しかし学費がかかるし、弟も、年老いた猫も心配でした。

届いた資料を見た母は、父と激しい喧嘩を繰り返すことになりました。
学費や生活費がかかる遠方の大学に行かせられないという父と、進学に積極的な母との喧嘩でした。

行きたいと話していなかったのですが、資料を見た母は私が言い出せないのだと思い込み、私のためにと父と喧嘩をしました。
結果、母の親に借金をして学費をまかない、奨学金を生活費にあて、足りない分と画材代は私がアルバイトをすることになりました。

私が知らぬ間に受験する大学が決まりました。
受験は私がしましたが、知らぬ間に住む部屋が決まり、カーペットや寝具、カーテンまで殆どのものを母と祖母に決定されていました。

外出の禁止は高校卒業まで続きました。
高校卒業前に友人の家に招かれた時も、母は嫌な顔をしました。友人と休日に会えたのは数えるほどしかありませんでした。

高校生活最後だからと何とか許可をもらい、昼過ぎに外出することができました。友人の母が食事を用意してくれたので18時ころに帰りたいと連絡すると、電話先で母が怒り狂い、すぐに帰って来いと言い捨て、切られました。

声を聴いていた友人の母は憐れんだ表情で、もう子供じゃないのにね、と言いました。
私は泣くのをこらえてお礼を言い、家に帰り、母の数時間に及ぶ説教に耐えました。

私は母の所有物なのだと思いました。

毒親からの解放・大学時代

大学進学で家を出ました。

遠方から入学者が集まっていましたので、一人暮らしをしている友人がたくさん出来ました。友人たちは家事が面倒だと話していましたが、私は一人暮らしがとても楽でした。
家族全員の家事をしなくて済み、いつ両親の喧嘩が勃発するかおびえる必要がなく、母の泣き喚く声も聴こえません。説教で拘束されていた時間を自分のために使うことができるようになりました。そして好きなときに友人と会うことができました。

母は肉や一部の魚など、脂っぽいものが嫌いでした。たまに鶏のモモ肉を買っても、皮や脂身は時間をかけて全て綺麗に取り除いていました。
自然と食事は固くパサつくものが多くなり、父が外食を嫌っていたため、祖父母宅に遊びに行ったときに食べさせてもらう食事以外を知らずに育ちました。

自分で選んで好きなものを食べられる、こんなに美味しいものがあったのかと貪り食べるようになりました。あっという間に10kgほど太りました。

飼い猫の死で先端恐怖症

私が家を出て一か月経ち、ゴールデンウィークが近づいていました。交通費がかかるので帰らないようにと母から言われていましたが、年老いた飼い猫が空になった私の部屋でずっと鳴いていると聞いていたので心配でした。
ゴールデンウイークが明けて少しして、猫が亡くなったと連絡をもらいました。

私にとても懐いている猫でした。私がお腹にできる少し前に両親が拾った捨て猫で、19歳の大往生でした。しかし私が殺してしまったように感じていました。

弟のことも心配でした。猫が死んで少ししたころ、弟がおかしいと母親に聞きました。やかんの口が自分に向いているのが怖い、ティッシュボックスの角が向いているのが怖い、自分に刺さりそうと頻りに言うのだといいます。

そのころ、大抵の高校生や大学生は携帯電話を持っていました。弟は持たせてもらっていましたが、私は禁止されていて持っていませんでした。大学に入学した直後はアルバイト代がなく、自分で持つことができなかったため直接連絡ができませんでした。

両親はペットロスで先端恐怖症になったのだと考え、新しく兄弟猫を引き取りました。弟は初めは抵抗があったようですが、次第に可愛がるようになり、数年をかけて症状が治まっていきました。

笑うようになる反面、死にたくなる

平日に深夜のビジネスホテルのアルバイトを始めました。休日にはイベント会場内の案内のアルバイトをしました。
私のどこが良かったのかわかりませんでしたが、アプローチを受け学部内に彼氏ができました。

友人たちは嘘を言わない人たちでした。意見を言うことに抵抗がなく、本音を言えました。時に喧嘩になっても、話し合いをしたり自然に仲直りができました。

以前よりずっと笑うようになったという自覚がありました。
頬の筋肉が上がるようになり、初めは筋肉痛のような感覚がありました。中学生時代、同級生の男子生徒に能面に似ていると言われていましたが、大学生になった私はもう能面ではありませんでした。

彼氏と会い、友人と遊び、深夜アルバイトの休憩時間の2、3時間を睡眠時間とし、学校の課題もこなす日々が始まりました。携帯電話を持つようになり、全てが新鮮でした。

しかしふと一人になった時に、どうしようもなく死にたくなりました。なぜなのかわかりませんでした。死んではいけないことは分かっていました。両親が悲しむだろうことや、周囲に迷惑をかけることも想像できました。しかしその思考から抜け出せませんでした。

高校時代から続いていた耳の聴こえづらさや痛みの鈍感さは、2年生になり気づいたときにはなくなっていました。しかし死にたい気持ちは大きくなっていました。

過食嘔吐と自殺願望

食べても食べても空腹で、食べ物も美味しくて食べ続けたことで太り、途端に食欲が収まって食べなくなり痩せるなどを繰り返しました。食べ過ぎて嘔吐することもありました。考えことをしていると自然と吐き気が生まれ、嘔吐してしまうことも多くありました。

部屋の電気を点ける気にならず、部屋で考え事をすることがよくありました。体から根っこのようなものが伸び、床に巣くう感覚がありました。
このまま死んだら地縛霊になるだろう、それは嫌だと考えていました。

なぜ死にたくなるのかわからない

充実した日々を送っているのに、自死願望が付きまといました。なぜ自殺願望が生まれるのか考えることもできませんでした。

そのころ彼氏とうまくいかなくなりました。
友人とよく会っていた私に不満を感じていたようでした。彼氏の家にも頻繁に通いましたが、試されるような言動が多く続きました。試されると逆に素っ気ない態度を取ってしまい、うまく愛情を表現できませんでした。甘えることも全くありませんでした。
彼氏のことが好きでしたので、別れてからより不安定になりました。

自死願望や体調不良については誰にも話しませんでした。
自分が病んでいる自覚はありませんでした。

自殺を実行

こんなに辛いなら死んで楽になろうと思いました。飛び降りるつもりでした。
学部の仲間で進めているイベントがありましたので、私がいなくなったら迷惑をかけることがわかっていました。それを誰かに引き継ぐ必要がありました。

ある日の夜に仲の良かった仲間の一人に電話をかけ、仕事の説明をしました。すると彼女は不審に思い、なぜそんなことを話すのだと聞きました。何かあるのか、彼氏と別れたことが辛いのかと聞きました。

私は自分の弱い部分を人に見せることに抵抗がありました。意思や案を発言することはできても、弱い気持ちを話せませんでした。その時初めて、死にたいのだと一言口にしました。

彼女は泣きました。いなくならないでと泣きました。

友人が泣いてくれたことがただただ嬉しく、私は必要とされているのだと思いました。

友人を振り回してしまいました。彼女との電話以降、本当に自殺を実行しようと思うことはなくなりました。

死にたいという思考はこの後も10年以上なくなりませんでしたが、やはり死んだら地縛霊になるだろうという確信のようなものがあり、それは嫌だと思っていました。
友人はその後少しの間私を心配していましたが、私はそれ以降口にしませんでしたので、やはり彼氏と別れたショックだと思っていたかもしれません。

私が友人に自死願望が強かったことを告白したのは、それから10年ほど後、自死願望を消化してからとなります。今でも仲のいい友人です。

親との関係・遺体の写真

学生時代、ほとんど実家に帰ることはありませんでした。母親が交通費がかかることを嫌ったからです。学費は両親が祖父母から借金をしてくれ、それ以外の生活費や画材代などは奨学金とアルバイト代から賄っていましたが、大抵の場合反対されました。

ある年、父方の祖父の胃がんが発覚し、あっという間に亡くなりました。
やはり交通費がかかるからと言い、母は通夜や葬式に来ないように言いました。

私は参列しませんでしたが、父は遺体を含め、写真を撮りためていました。また、私が家を出て1か月ほどで亡くなった飼い猫の遺体の写真も撮りためていました。
私は写真を見せられ、心底気持ちが悪くなりました。

成人式・母のなすがまま

成人式には帰ってくるように言われました。
着物は母のお下がりを着るように言われました。髪型も髪飾りも小物も、母と祖母で決められていました。

母の着物は腕が短く、昔はファーなど着けなかったから不要と言われ、つんつるてんでとても寒かった記憶があります。両親の前では嬉しい演技をしました。そうでなければ怒られることがわかっていました。
相変わらず私に選択権がなく、ストレスを感じました。

多忙な生活

何人か彼氏ができました。自分から誰かを好きになることはありませんでした。好きだと言ってくれる人と付き合い、自分も好きになれたりなれなかったりを繰り返しました。

相変わらず太ったり痩せたりを繰り返し、深夜アルバイトの休憩時間中に課題を仕上げ、家に帰ると寝てしまうのでバイト明けで大学に向かい、空いている講義室の床で仮眠を取る生活をしていました。

学歴重視の毒親

弟は大方の予想を裏切り、名の通った有名大学の受験に失敗しました。父は親戚に恥をかかされたと怒り狂い、弟に働けと迫りました。弟は土下座をして父親に浪人をさせてもらうよう頼みました。

それ以降毎日12時間以上自宅で勉強を続けました。予備校は費用がかかるため、模試や夏期講習で少し通う以外は自力で勉強しました。
両親は美術の専門学校卒、或いは中退で、勉強が得意ではありませんでしたが、子どもには期待をしていました。

母は弟が可哀そうだと繰り返していました。私も弟が心配でなりませんでした。時々電話で連絡をしましたが、弟は根詰めて勉強を続け、翌年有名国立大学と有名私立大学のレベルの高い学部に合格しました。父は一転して弟を自慢して話すようになりました。

就職内定と卒業

私の就職活動時期になりました。奨学金の返済が始まることや、親に言われていたこともあり、必ず就職しようと決めていました。内定をもらった中からレストランイベントの企画職を選びました。

大学を卒業するときに祖母が交通費を出し、祖母と母が来てくれました。卒業式で着る着物はやはり母のお下がりで、ほぼ真っ白な袖の丈が短いものでした。非常に地味でしたが喜ぶフリをしました。

祖母が謝恩会の服代を出すので好きなものを買ったらいいと言ってくれ、3人で選びに行きました。
しかし私がいいと思ったものは却下され、祖母と母が勧めたものにするよう迫られました。
お金を出してもらうし、いつもそうでしたので、自分の希望を取り下げようとしたところ、店員が娘の希望の服にするべきだと勧めました。
店員は、高校卒業時に見た同級生の母親同様、憐れむような顔をしていました。

私は自分の望んだ服を買ってもらうことができました。20年近くたった今も気に入っていて、結婚式などに着ています。

母や祖母が私のためを思い、行動しているのだろうとわかっていました。しかし私にはストレスで、帰りを見送ったあとはドッと疲れを感じました。

 

 

 

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