凶相住宅「家選びで家族の運命が変わる」と感じた私と家族の話

「住む家で運命が変わる」と思ったことはありますか。

私はそれを経験しました。

それらについて記します。

トラブル続きの家

私と両親の話です。

両親は結婚当初、川崎のアパートに住んでいました。

結婚式を挙げた翌日から父の暴力が始まったと、母は話しました。
母は実家に逃げましたが、離婚を決めきれず父の元に戻ります。

結婚して二年経つ頃、母は私を妊娠しました。
長く里帰り出産をした後、私が一歳になるころにアパートからマンションに移り住みました。

両親は頻繁に喧嘩をしたものの仲が良い時間もあり、母は「猟奇的」ではありませんでしたし、家の中も足の踏み場がありました。
家族で公園に出かけることもあり、家族の体をなしていました。

私が小学4年生になるころ、マンションのローンが残っているにもかかわらず、父が衝動的に一戸建ての購入を決めました。

新聞広告でその物件を知り、思い付きで見学に行って他の物件を見ることなく決めてしまったのです。
父の衝動はいつものことでしたが、母が反対している様子は見られず、引っ越しが決まりました。

購入したのは、住宅街の一角に残されていた畑を潰し、7区画に割った上で販売された建売住宅でした。
区画の一番奥に建てられたその家はいわゆる旗竿地で、四方が家に囲まれています。庭はほぼなく、窓から腕を伸ばせは隣家の壁が触れるほど接近していました。日差しはバルコニーの一角に入るのみだったこともあり、区画内で唯一買い手がつかなかったようです。

私と弟は転校をして、学区で指定された公立小学校に通いました。
大きな公団のために建てられた学校でした。

公団は低所得の家庭が一定数を占めていました。
貧困や親の犯罪により非行に走る子どもたちと、それに釣られてしまう生徒がいたことで、学校がかなり荒れていました。

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私はこの一軒家に住んでいた8年弱の間、良い思い出がありません。本当に「全く」ありませんでした。

引っ越しをしてすぐに、両親の喧嘩がさらに増えました。
家には四六時中、怒号と暴力の音が響くようになったのです。新たにできた私の友達が「理想の友達」ではなかったこともあって、母親は益々不安定になりました。頻繁に私に当たるようになり、私は母親がどんな言葉を欲しているのかや機嫌を終始窺うようになりました。

私は両親との関係に悩むようになりました。

休日には父親が何度も癇癪を起しました。母は感情の揺れが激しく猟奇的ともいえるほどの殺気で、上手くいかないことは娘である私のせいにして責め続けました。

素行が良いとは言えない友人が多かったのですが、私は彼らに釣られて同様の行動をすることはありませんでした。そのため小中学生の女子に良く見られる“仲良しグループ”に入ることはなく、一人でいることに慣れていきました。

私は中学生になりましたが反抗期がありませんでした。二歳下の弟も反抗期がありません。それを母は「子育てが成功したからだ」と自慢げに語りましたが、私と弟は両親に逆らったらどれだけ両親が荒れ狂うかわかっていたので、親の機嫌を取るために自分を押し殺した結果でした。

その頃父親が勤めていた会社は初代社長が退き、息子が継ぎましたが新たな事業に手を出して失敗。
不況に突入したこともあり、数ヶ月の給料未払いが続いたのちに倒産しました。父は下請けだった会社に転職しますが、もともと多くなかった給料が大幅に減ることになりました。

母は働きに出ますが、フルタイムで働いても十数万円の安月給でした。ハローワークの紹介にも関わらず、外国籍の不法滞在者を法外な低賃金で雇っている工務店の事務職でした。雇用主は癖があり、夜中でも母に電話を寄こして雑務を申し付けることがありました。転職をしようにも、不況の影響で簡単ではありませんでした。母のストレスは益々増しました。

両親はもともと繊細な質でしたが、さらに精神的な余裕をなくしていきました。
父の癇癪と母の被害妄想が、目に見えて悪化しました。

リビングの床は足の踏み場を探しながら歩く状態にまで荒れました。母は常に苛立っていて、私が部屋を片づけるとさらに怒るため、諦めてそのままにしました。

このころから母は私の外出を制限するようになりました。リビングの床に私を座らせて、毎日30分~3時間程度、泣きわめきながら酷く当たるのです。母に都合の良い記憶のすり替えもこのころから始まりました。話しが支離滅裂なのは以前からでしたが、より酷くなったようでした。

私は何を言っても否定され、責められる状況から逃げることもできないのでストレスが溜まり、精神的な症状が現れるようになりました。

父が帰宅すると母は私を解放しました。私をストレス発散の的にしていることを知られると、父が怒るからです。父は母が常に苛立っているのが不満だからなのですが、母は「あんただけが良い思いをしている」と余計に私への憎悪を募らせました。

両親が家にいる時はかなりの割合で父の怒号や、母の狂った泣き叫ぶ声が聴こえました。両親は臭いに酷く敏感で冬でも窓を全開にするので、声が外に漏れて迷惑になっていたのでしょう。深夜に無言電話がかかって来たり、夜中に雨戸目がけて木材が投げ込まれるなどの嫌がらせを受けるようになりました。

木材を投げ込んだのは、裏の家に住む中年の独身男性でした。男性がわが家を覗き込んでいたり、実際に投げ込んだ様子を父が見たというのです。

父は家が覗かれないようカーテンを閉めるようになりました。
しかし臭いが籠るのは嫌だと言って、窓は全開にします。

また、家の中に盗聴器が仕掛けられていると言い出します。
「家が覗かれている」「盗聴されている」と父が毎日繰り返すので、母は家にいるのが苦痛だと私に漏らしました。

私は精神の不調から、「この家に居たら生きていけない」と考えるようになっていました。そこで学歴志向の母に乗じる形で、遠方の大学に進学しました。母方の祖父母から援助を受け、奨学金を借り、深夜のアルバイトで生活費や画材代を稼ぎながらキャンパスに通うという苦学生ではありましたが、辛い実家での生活から解放されました。

「実家」は私の存在を否定する「象徴」でした。

精神的な不調はその後も長く続くのですが、実家を出たのは正しい判断でした。
そうでなければどうなっていたかわかりません。

それくらい、一軒家で暮らした8年弱は私にとって辛いものでした。

凶相住宅と家族のバランス

私が家を出たことで、母はストレスのはけ口を無くしました。
母はもともと弟には優しく、当たることはありませんでしたから。

私は数年に一度、実家に帰るかどうかの生活となりました。私がたまに顔を見せると母は父への恨みをしゃべり続け、泣き喚きました。母の話はいつも娘の私が全て悪いという結論でした。私は益々実家に帰らなくなりました。

両親の喧嘩は相変わらず酷いもので、命が危ぶまれることもあったのですが、何度勧めても母は離婚に踏み切りませんでした。

弟が大学院を卒業して金銭的に余裕が出ても、両親の不仲は変わりませんでした。

私も弟も実家を出て働き、結婚しても両親は相変わらずでした。
それどころか隣家との境に高い塀を建てるなどして、被害者意識は増していきました。母は父の妄想を聞いているのが苦痛だと言い、引っ越しをしたいと言うようになりました。

両親が一軒家に住んで25年以上が経った頃、実家の隣県に住んでいる母方の祖父(私の母の母)が亡くなりました。

母は祖母に同居を申し出ました。

目的は「引っ越しすること」でした。同居を口実に裕福な祖母からの援助を受けて、新たな住居を購入することを計画していたのです。

祖母は同居の申し出に喜び、親戚の反対を押し切って住みやすい家を探すことになりました。

父も母も神経が細く神経質なので、誰かと同居できるタイプではありません。酷く感情的で不安定、被害妄想が強く他人を思いやる気持ちに欠けている上に夫婦喧嘩も激しいので、祖母にストレスがかかるのではないかと心配しました。私から祖母に話したのですが、祖母は新しい生活に夢を馳せており、同居は実行されました。

祖父の死から一年経たないうちに、両親は中古物件を購入しました。もちろん、祖母からの援助金で実現しました。
この家もまた、父が衝動的に決めていました。県内ですが、以前よりずっと不便な土地にありました。

あっという間に転居が完了し、旗竿地の一軒家が低価格で売りに出されました。

「病み」の連鎖

私は昔から住居物件を見るのが好きです。
興味に負けて、両親が移り住んだばかりの新居に行きました。

不便な地域ではありましたが、以前の家とは違い空気が清涼に感じられて、非常によい印象を持ちました。

数か月後に祖母が移り住み、両親と祖母の同居が開始しました。

同居後二か月も経たない頃に、私は子どもたちを連れて祖母の様子を見に行きました。祖母がどのような状況か心配だったからです。

祖母は私と二人きりになった時に、「あの子(私の母)はおかしい。旦那(私の父)もおかしいけど、あの子は本当に狂ってる。話しが通じない。この家に居たくない。私を連れ出してほしい。以前の家に帰りたい」と泣いて訴えました。

祖母から詳しい話を聞きました。
父と母は祖母を虐待していました。

当人たちに自覚はなくても、虐待としか思えないことをしていたのです。祖母から聞いた父と母の言動はどれも「私に」言いそうなこと、やりそうなことでしたが、二か月という短期間で高齢の祖母にそこまでしていることに驚きました。

私は母に苦言を呈し改善するよう求めましたが、相変わらず自己弁護ばかりで、都合が悪くなると泣いて喚きだしました。

恐らく今後も改善は見られないだろうと分かりましたが、私はすぐに祖母を連れ出すことができませんでした。

その日私はまだ小さい末っ子を含む、三人の子どもを連れていました。祖母を連れ出すとなったら母が大暴れするのは目に見えています。
子連れで両親の妨害を阻止しながら祖母を連れ出して荷物を運び出すのは至難の業でしたし、祖母が元に家に戻るには親戚の了承を得なければなりません。私の自宅は車で3時間程度離れているので、出直すのも難しい状況でした。

情けないことに、両親に恐怖心を抱いている私には、せめて数日、覚悟を決めて段取りを考える時間が必要でした。

祖母は私が去った後すぐに、母の弟夫婦に泣きつきました。祖母は両親とかなり揉めましたが何とか家を出て、祖父と暮らした家に戻りました。その後ほどなくして施設に入ります。

私は母の弟の妻(私の叔母)に、両親の所業について謝罪の電話を入れました。
そこで母が、母の兄や弟の嫁たちに虐めのような言動を繰り返していたことを明かされました。

私は謝ることしかできませんでした。

両親と祖母の同居は、3か月も続きませんでした。

凶相住宅の呪縛が解けるまで

祖母が両親の元を去ったのは、両親がその家に住んで一年も経たない頃でした。

親戚に「あの夫婦はおかしい」と思われていたことを知って、「やはり」と思うと同時に、やるせない思いが募りました。

しかしその辺りから、母の言動がみるみる落ち着いていきました。
「普通」の会話ができるようになったのです。

私が何を言っても大抵否定ばかりで都合が悪くなると泣き喚いていたのに、なくなりました。

初めはストレス発散の矛先が祖母(私の母の母)に移ったのかと考えました。さすがに祖母への虐待はマズかったと自覚した反動で、一時的に私への態度が改善されたのかと思ったのです。

しかしあれから数年経っても母の言動は落ち着いています。母は施設に入った祖母にたまに電話をしているようですが、祖母や母の義姉や義妹に当たることもしていないとのこと。(祖母に確認済み)

母が人に当たらず穏やかでいられる事態は、私が物心ついてから初めてのことで驚きました。

これまでも両親が年齢を重ねることで「丸くなったのでは」と期待したことがあったのですが、その度に酷い事態に巻き込まれて落ち込むことを繰り返してきました。

私は幼少期から両親といる時は常に緊張していました。そうでないと、激しい言動や暴力に耐えられないからです。油断したときにそれに見舞われると、自分を見失うほど精神が傷ついてしまうため、身体と心を強張らせて耐える準備を常にしている状態でした。

それが本当に「不要になった」のです。癖とは怖いもので、私は今でも両親に会うときは緊張してしまうのですけどね。

父は内に籠りやすい性質はそのままですが、盗聴されている、盗撮されているという被害妄想が全くなくなりました。窓やカーテンを開けて家に日差しを取り込み、癇癪の度合いもかなり減りました。両親の喧嘩は相変わらずありますが、日に何度もぶつかることはなく、暴力ももうありません。旗竿地の一軒家に住む前の程度まで落ち着きました。暴力が全くなくなった点を考えると、現在が一番落ち着いていると言えます。

母は片付けが苦手です。この新たな家に越してくる時も物が捨てられず、数十年前から壊れたままのものがそのまま新居に持ち込まれて雑然としていました。しかし引っ越して1年になるころから不要な物を手放せるようになり、見るからに片付いて行きました。

ストック品を大量に購入してしまう癖は変わっていないものの、急激な変化に驚きました。

「家選びで家族の運命が変わる」と感じた私と家族の話

両親の繊細な性質。
両親が若かったこと。
社会の変化。
金銭的なストレス。
環境……。

様々な状況が重なった結果、たまたま旗竿地の一戸建てが私にとって「悪夢の家」になってしまったのかもしれません。

でも……。

私は結婚後に購入した中古住宅を建て替える際、仮住まいを探すために内見を重ねました。

日当たりが良かったり条件が悪くなくても、物件によって「嫌な感じがする」ことがありました。不思議なことに夫と私の感覚がいつも一致するのです。

隣家が事故物件だったり理由が分からないこともあったのですが、家によって「良くない気」は「ある」と思うようになりました。

私が思い出す旗竿地の一軒家は、常に嫌な気に溢れています。私の嫌な記憶がそうさせるのかもしれないのですが、悪いことを引き起こす「何か」があるのかもしれないとも思うのです。

それは住む人の性質や感情に入り込み、「負」を助長させてしまうのではないでしょうか。

私が「住む家のせいにしたい」だけなのでしょうかね。

いえ……やはり住む場所や環境はとても大切だと実感しています。

私の実体験でした。

 

※私が凶相の家と呼んでいる旗竿地の戸建ては、旗竿地だから悪いのではなく、日差しが入らず風通しが悪いといった吹き溜まりのような地形と間取りが悪いものを溜め込んでしまったのだと想像しています。

 

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