【長崎の原爆・東京大空襲】普通の小、中学生が体験した戦争・祖父母の記憶

私の祖母は長崎の原爆、祖父は東京大空襲を経験しています。

孫の私が聞いても直接語ることはありませんでした。
しかし口を噤むのではなく、手紙という形で知らせてくれました。

当時普通の小学生、中学生だった祖父母が体験した戦争を知っていただきたいと思います。

戦後75年の傷


私が小学生だったころ、小学校の夏休みの自由研究で第二次世界大戦について調べたことがありました。

それは戦争を知ってほしいという母の勧めと、身近に体験者がいるので話を聞きやすいだろうという安易な思いからでした。

当時夏休みに入るとすぐに祖父母の家に泊まりに行き、休みが終わるまで滞在を続けるのが恒例だったのですが、戦争の話しを聞かせてほしいと言っても、祖父母共に直接語ることはありませんでした。

今日は広島の原爆の日です。
今日は長崎の原爆の日です。
今日は終戦記念日です。


毎年そう伝えるテレビのアナウンサーの言葉を、深く考えるような表情で黙って聞いていた祖母を思い出します。


例年より少し早めに帰宅したあと、祖父母が長い手紙を送ってくれました。


当時10代、今でいう小、中学生の、生々しい心の傷が書かれていました。

言葉で語れない。


何十年経っても癒えることがないのだと感じました。
それが戦争という恐ろしいものだと知りました。

祖父は数年前に亡くなりました。
祖母は軽い痴呆が入り、本人の希望もあって施設に入居しています。

戦争を知る世代が高齢になり、語り部が減っています。

戦争の記憶は、平和な世を守る礎となっています。

記憶を途絶えさせないために、祖父母から貰った記憶をお知らせします。

自分が、または自分の子どもがこんな経験をしたら。

そう想像していただけると嬉しいです。

長崎の原爆・祖母の記憶

※原文まま。改行だけしています。


昭和20年8月9日。

其の日は晴れ上がったとても暑い日で、朝からの空襲警報も昼近く解除になり、伯母さんの使いで歩いて10分位の郵便局に従姉妹と二人で行き家に帰って来た。

台所では昼食の支度でお芋を煮ていた。

其の時飛行機の爆音が聞こえたが警報のサイレンも鳴らないので、日本の飛行機かなと思いながら私は玄関を出て爆音が聞こえて来る見上げる、

突然 

パッ!! 

一瞬明るい、なんとも口で言い表せない光、

ワァ!

玄関脇にある防火水槽の横に目と耳を手で押さえかがみこんだ。

早く家の中に入らなければと目をあけたらガラス戸は微塵に砕け、畳は吹き上げられ、玄関横の格子戸は吹き飛び家具は倒れどうにか家は崩れず、何が何だか頭の中は真っ白け、

やっと

「とうちゃん、かあちゃん」 
「皆 なんともなかか」

とお互いに呼び合って立ちすくんでいた。


家の中には私と父母、従姉妹二人とその母親、伯母の七人が居た。

家の外を見ると、洋服が破れ血だらけで赤ちゃんを抱いた女の人が通った覚えがある。

私も履物のままで家に上がれば良いのに滅茶苦茶になった家の中にハダシで上がった時、ガラスで左足甲の内側を切ったと思う。

とにかく避難所まで行こうと、隣組で決められた、子供の足で30分の処にある山を掘って作った横穴防空壕まで必死の思いで夢中で走った。

その途中、泣き叫びながら歩いている人、頭から血を流し服を血に染めて必死の顔で走っている人など、いろいろな人々と行き交いながら、やっとの思いで防空壕にたどり着く。

幾つもある穴の中は人で一杯。
やっと一つの、入り口近くの場所に7人が入れた。

怪我をした人、泣き喚く赤ちゃん、誰も彼も茫然と、顔見知りの人を見てお互いに無事を声も無く…ホットした。

足から血が流れていて初めて怪我に気付き、救急袋の薬を塗り包帯をする。


夕方になる頃、県庁から火が出て火災になっているとの事で、

「家が心配だから様子を見てくる」

と父が山を降り、少しばかりの食べ物…と云っても、殆どがガラスと灰でまぶされているので無い筈だが…何か持ってきた。

何度か防空壕と家を往復していたが、夜も遅くなって

「家も燃えるな…誰も消す人はなか…仕方なか」

山の上から見える街は夜と云うのに空まで真っ赤。
いろんな想い出のある大切な宝物のある家も唯の消し炭となった。

この時間、同じ街道にあった私の女学校(今の中学校)、希望に燃えて入学した学校、一年生、さくらんぼのなる校庭、みんな燃えた。


何度かの食事も、救急袋の乾パンと水で少しずつ食べ、誰もお腹がすいた等と言う人も無かった。小さな子、赤ちゃん迄皆我慢した。

何日目からか良く覚えていないが、何処からか、父が おにぎり を持ってきて呉れた。

小さなおにぎり一個をゆっくり大切に食べた。

これは婦人会の人達が援助食料として炊き出しをして配って呉れたそうだ。

本当に美味しかった。


私の足の傷が化膿して足首から下が腫れ上がり靴も履けなくなった。
同じ壕に居た医者の卵である隣のお兄さんが傷口を切り膿を出してくれて少し楽になった。

今の様にはニュースも耳に入らず、何がどうなったか? 

それでも子供たちは仲間を作って遊んでいた。
それだけがホットして気持ちがなごんだ時間だったと思う。


8月15日、

この日も暑い日、

大人は全員集合、天皇の録音放送、太平洋戦争の敗戦、でも誰も信じない、誰も壕を出る人が居ない、

街ではいろんな出来事があったそうだが未だ子供だった私には分からなかった。


敗戦の何日目からか家のある人、行く処がある人がボツボツと帰り始めた。

私達は帰る処が無い。

ところが、同じ隣組の中で焼け残った大きな銀行の偉い人が居た社宅の、部屋数も多く、台所も広く、お庭の広いお家の、日頃親しくしていた方が、行く家が決まるまで共同生活でも良かったら…との事で、やはり家が焼けたお隣の方と私達6人、計9人位の者が転げ込んだ。

この時歩けない私は父に背負われて山を降りた。

医者に見て貰いたくても何処に行って良いやら…私の卒業した小学校(新興善国民学校)が救急病院になっていた。

そこに行ったらうめき声、死んだ人、

びっくり怖くなって

「いやいや 恐ろしか」

と泣き喚く私を父は

「どげんなっても知らんぞ」

と言いながら共同生活の始まる家に行った。


原因不明の高熱が何日か続き、柿の葉とスルメを煎じたものを飲まされ、苦くてヒィヒィ言いながら飲んだ覚えがある。


この間いろんなデマが飛ばされ、

アメリカ兵が来て女は連れて行かれ子供や男は殺される、今日も何処かで殺された等

と恐ろしい話ばかりが耳に入った。

そこで女・子供は田舎に隠れ、男は未だ戦うのだと云うことで
私達6人は歩いて3時間山越え野越えの奥深い田舎の知り合いの家に世話になる事となりリアカーに僅かのものを積み、私はビッコを引きながら疲れきってたどり着いた。


父母は何度と無く街に往復し新しい生活の場所を探していた。

私と従姉妹二人とその母親の女4人は9月初め頃まで田舎の家前の川辺で水遊びしながら食べ物も我慢して小さくなって生活。

その田舎にもアメリカ兵がやってきて食料などを取り上げて行くとの噂で、更に山奥にめぼしい物などを隠したりで大変でしたが、全くの嘘!


私達が気分的にのんびりしている間も父母はどんな苦労をしていたのか後で思うとさぞ大変だったろうなぁ~と思います。


9月10日頃も過ぎると噂も殆どデマだった様で、学校の事もありいつまでも他人様の家に世話になって居られないので9月中旬頃、また大きな家に帰って来た。


焼け跡のあちらこちらでは原爆で亡くなった人を焼いている。

病院になった小学校は大勢の患者で溢れ、これでは焼けた女学校も何時再開されるか…足を引き摺りながら私は従姉妹二人と一緒に、焼け跡の商店が在った処に袋を持って出かけ茶碗、漬物などなど使える物、食べられる物、何でも掘り出して持って帰りました。


やっと焼け跡の学校に連絡札が立ち、生き残った1年生から4年生までの生徒が集まり無事を喜び合いました。

其の頃、私達の家族もやっと借家が見つかり父母、私と三人の生活が出来るようになり、お世話になった大きな家から出ました。


焼けた女学校の再建に生徒全員で汗を流し焼け跡の片付け。
勉強はほかの学校を借りて二部授業、空襲のサイレンも鳴らない、

やっと平和!

しかし着る物、食べ物がない。

ところが闇市場では大抵の物はあるが高価で手が出ないし、怖くて子供達が行ける処ではない。


大戦中から戦後に掛けて、日曜日は食べ物を手に入れる為に田舎の知り合いの処に行って何でも良いから食べ物(米、芋、かぼちゃ等)を物々交換で手に入れる。

お金では売って呉れない、母の焼け残った着物など無くなった。

小さい背中に背負えるだけの物を背負い、持ち、満員の汽車、バス、歩き、時には警察の取締りでオマワリさんに見つかり没収される、逃げて、隠れる、いろんな事があった。

女学校3年だったかに新制中学が出来、中学3年、高校3年、大学4年制の新しい学生が出来た。


世界の人達みんな仲良く出来、どんなに平和が良いものか、戦争ほど無駄で悲しいものは無い。

原子爆弾(ピカドン)と知ったのは終戦近く、
また放射線から受けた身体が幾十年となく苦しまなければならない。
今でも続いています。

戦争を知らない世代、決して決して戦争だけはノーですよ。


私は原爆被爆者手帳を持って今も年に二回健康診断を受けています。

祖母の被ばくについて

☝こちらの記事でも紹介していますが、祖母は被爆者です。

中心地から数キロ離れた場所に家がありました。

被爆後、家のあった場所に居続けていたら、被ばく量が致死量に達し、一日から数日で亡くなっていたはずです。

山の裏に逃げたこと、家に戻らなかったこと、身を寄せた家が爆心地より遠く、その後の被ばく量を抑えられたことが命を繋げました。

当時は落とされた爆弾がどういうものかわかっていませんでしたし、目に見えない放射能の恐怖を知りませんでしたので、偶然助かった命でした。

祖母が亡くなっていたら、そしてその後被爆者は差別の対象となるわけですが、そこで出産を諦めていたら、母や私は産まれていません。

東京大空襲・祖父の記憶

※原文まま。改行だけしています。


太平洋戦争時代の私は未だ少年で、武器を持って直接戦争に参加した経験はありません。

昭和16年12月8日、日本がアメリカ、イギリス、オランダなどに対し宣戦を布告した時は小学校5年生だった。

戦争がどう云うものか全く分かっていない。
空想の世界でしかなかった様に記憶している。


開戦一年後位から次第に物資の不足が感じられる様になり

「欲しがりません勝つまでは」

のスローガンが言われ出した。

お菓子は当然のこと、甘いもの、果物なども口に入らなくなった。


当時、私は東京市中野区の陸軍通信学校の近くに住んでいて、学校には幅400~500メートル、長さ2キロメートル以上の訓練用野原があって、通信ケーブル敷設訓練や乗馬訓練が行われていた、

終戦後に初めてそこが陸軍中野学校と云うスパイ養成学校だと知った。


6年生の夏だったと思うが、一度アメリカ艦載機B24の空襲があったが後は続かず一回で終わった。

中学校に入学して暫らくすると戦況が厳しくなり、上級生は軍需工場に勤労動員、私達のクラスは農業用水の掘削工事、荷車を引いて軍の兵舎に米俵の搬入作業などに動員された。

それでも時々は学校に行って授業を受けていた。

中学2年の頃だと記憶しているが南太平洋の日本信託統治領土のサイパン島がアメリカの手に落ちて、サイパン島を発進した爆撃機と航空母艦から発進した艦載機が頻繁に日本空襲をする様になった。


日本が太平洋の制空権を失いグァム島にアメリカの飛行基地が出来てからは毎晩のようにB29爆撃機の空襲があって朝まで起こされ空襲警報が解除になると学校に行く毎日だった。

敵は住宅地には主に焼夷弾を投下して家を焼き払い、工場や軍の施設には爆弾を落とした。

こうなると空襲警報が出ても防空壕に出たり入ったりせず……防空壕は素人が地面に掘った貧弱で焼夷弾が落ちて直撃されれば壊れる代物だった……敵機の動きを見ているくらいの度胸も出来た。

高射砲の弾の破片や焼夷弾が身体に当たり頭を割られたり怪我をしたと云う話もこの頃から始まったように思う。


昼間の空襲では、B29は高高度を飛行して高射砲の弾が届かない。

この頃から日本の防空戦闘機が体当たり攻撃をする様になり、私も2~3回目撃した。


高空に銀色で豆粒に見える物がスーとB29に近づき黄色の閃光が見える、
暫らくすると体当たり機の無線通信機や何か乗組員に見える塊がスーと落ちて来る、
また其の後には分解した戦闘機の翼が落ち葉のようにヒラリヒラリと落ちて来る、
これは何処に落ちるか判らないので見ていないと危険だ。

これで一人の命が消えたと思うと遣りきれない気持ちになる。

B29は何事も無いように飛び去ったり、多少の煙を引いて彼方の空に消えて行く、
墜落したのを見たことが無い、海に出てから落ちるのか? 

家の近くの氷川神社境内にB29のエンジンが落ちてきた。

ドス~ンまるで爆弾が落ちたのかと思うほど、体当たりされたB29がエンジン火災でエンジンを切り離して捨てたようだ。

ある時は敵艦載機の空襲で防空戦闘機と空中戦、低い高度の空中戦ではその中に高射砲が撃ち込まれた事もある、

味方がやられる危険もあり無茶だと思う。


私も一度、敵艦載機ロッキードP38(双胴型戦闘爆撃機)に狙われ機銃掃射を受けた。

学校の近く……校舎は丁度兵舎のように見える……一人で歩いているとエンジンを絞り音を殺しP38が近づくのを発見、狙われていると思い距離を見計らって道路脇の草薮に横っ飛び、

ダ・ダ・ダ・ダッ

機関砲の発射音と爆音、

すぐ起き上がりP38の動きを見ると引き返してくる!

こちらに照準を合わせているなと感じ、身構えて近づく距離を計り又横っ飛びで叢へ飛び込む

ダ・ダ・ダ・ダッ

この後数回掃射されたが相手はあきらめて飛び去った。


飛行機は急に向きを変えられないので飛行方向に直角に逃げるのが良いと聞いていたので命拾いした。



年が明けて昭和20年3月だったと記憶しているが、東京大空襲があり東京の中心部が焼け野原になった、

中野の家も近くまで火が迫ってきた、風向きが変わり延焼を免れた。


B29爆撃機は超低空で我が物顔で焼夷弾をばら撒いた、

パイロットや機関砲射手の姿も手に取るように見える、

機体下の弾倉を開いて焼夷弾投下の瞬間も見た、

それでも壕に入らずに見ている、
逃げる場所も方法も無いのだ。


高射砲がうなる、直撃弾で火災を起こす敵機、練馬の高射砲がよく命中しているらしい、
すごく大きな発射音が近くで聞こえると敵機に当たる、新式の高射砲らしい、

夜が明けた。


商店のあった焼け跡に燃え残りの食料が無いかと掘り出しに行く、
焼けた米はとても食べられる物ではない、

缶詰ははじけていても食べられる、
皆食べるものが無いかと探す。

大勢の人が焼け死んだであろうとその時考える事は無かった、
兎に角夢中だった気がする。


その後、広島と長崎に新型爆弾…あとで原子爆弾と判った…が投下され終戦を迎えた。


終戦近くには勤労動員で東京市庁舎の地下壕を掘っていたが8月15日の終戦当日は朝から作業を止め、責任者からは帰宅し正午のラジオを必ず聞くように言い渡され、帰宅途中の街頭で天皇陛下のポツダム宣言受諾、無条件降伏の録音放送を聞いた。


ああ明日からどうなるのだろう。
私が14歳中学3年の夏であった。


その後は戦時中よりも食料が逼迫してきた、
さつま芋の茎、豆粕なんでも食べた、
海草パンだけはどうしても食べられなかったな。

この先のことは未だ多くの人も記憶にあるでしょう。


この後、15歳、16歳と二年続きで父母が亡くなり、周囲の心無い大人達に換金用の衣服や、学資のためにと親が残して呉れた保険金を騙し取られる等々、一時期大人不信になったけれど、

それから30年近くも経って自分も当時の大人の年齢になって見た時、当時はみな生きるのに大変で人のことを思う余裕が無かったのだなと思えるようになりました。

だからと言って騙すのを肯定しているのではありません皆正直に、真面目に生き、疑うことを知らない者までを騙すようなことが無いように願っています。

大変困難なことだと思いますけれど……

祖父の境遇について


祖父は聡明で物事を分析し考えることに長けていました。

戦時体験にも、性格がよく出ています。

祖父は両親を亡くし、非常に苦労しました。

しかしこのころには、両親を亡くし、どうにかして生きるしかなかった子どもたちが大勢いました。
誰もが生きることに必死でした。

ドラマや映画では子どもが盗みに入る描写が多くありますが、大人が描かないだけで祖父と同じように大人に騙され傷ついた子どもたちが大勢いたのだと思います。


祖父は姉と身を寄せ合いながら生き、奨学金で大学を卒業しました。

学生時代に祖母の母が営んでいた下宿に世話になり、結婚まで至ったと聞いています。


しかし祖母の父が作った借金があり、また祖母が被ばく者だったことで子どもに障がいが出るとの差別もあり、結婚には困難が続きました。

祖父母共に働いて祖母の父の借金を返し、不安を持ちながらも子を産み育てました。


学歴を活かし収入に繋げ、その後は経済的に恵まれた生活を送り、生涯を終えています。


☟祖父が亡くなった時の話


悲しい歴史を繰り返さないために、忘れずに生きたいと思います。

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