私は愛情を与えられて育ちました。
しかし子どもが求める愛情とは、少し違いました。
不安定で激しい気性の両親でしたので、振り回されて育ちます。
私は幼少期は感情を溜め込む傾向がありましたが、大学進学で家を出てからは意見を言えるようになり、表情が自然と作れるようになりました。
就職してもそれは変わりませんでした。
表立って意見せずに陰口を言う人は、外面がいい両親を思い起こさせました。
そうなるのが嫌で、会社でも臆せず意見するようにしていました。
「意見する。しかし他者の意見も聞き入れる」をモットーとしていました。
付き合う彼氏にも、言い方を工夫しながらしっかりと意見を伝えていました。
しかし結婚の話しが進むうちに、途端に臆病になりました。
その時は自覚がありませんでしたが、今思えば顕著な変化だったと思います。
「母のようなヒステリーを絶対に起こさない」
「両親のような罵りあう夫婦にはならない」
「夫婦が思いやれなければ子どもに影響する。そうなるくらいならさっさと離婚する」
そう心に決めていました。
毒親育ちの私が結婚して陥った思考。
それによって引き起こされた夫婦のトラブル。
どう向き合ったかを記します。
毒親育ちの思考
毒親育ちと一口に言っても、毒親には様々なタイプがいますし、子どもの性質も千差万別ですので皆が同じ思考になるわけではありません。
私の両親の場合は、「神経質・被害妄想・妄想癖・潔癖・親との接触が少ないまま育ち精神が未熟・痣程度の暴力」という特徴がありました。
下記記事を見て頂けると、詳細がわかります。
多少放置子に近い部分がありましたが、大きな怪我をしたわけではありません。
言葉の暴力、精神的支配が主でした。
毒親育ちが結婚してぶち当たる壁
結婚後の変化
「喧嘩して罵り合うくらいなら結婚生活なんていらない。そうなるくらいなら絶対に離婚する」
心に決めていたその状況にならないよう、神経を尖らせるようになりました。
すると「喧嘩をしないようにしなければ」と思うあまり、意見が言えなくなっていきました。
夫に実父の影を重ね、「女が意見したら男は激高する」と思い込んでいました。実父とは違うタイプの男性と結婚したにも関わらず、家庭で父親の機嫌を伺う姿勢が染みついていました。
「機嫌がいいときに、機嫌を損ねないように、怒らせないように。物事は穏やかに伝えなければいけない」と顔色を窺うようになります。
産後
子どもが産まれると、その過酷さとホルモンの影響で喧嘩が増える夫婦は多いものですが、わが家は一切の喧嘩がありませんでした。
なにより夫を不機嫌にさせないようにと努めていたからです。
夫が帰宅したときに掃除が終わっていなければ謝り、食事が温かい状態で食卓に並んでいなければ謝りました。
しかし第一子の長女は非常によく泣く子で、体力がありました。
長女が二歳になるまで、夜中一時間おきに起こされる生活が続きました。昼間も良く泣くため思うように外出できませんでした。まるで籠の鳥でした。
抜け出したくて社会復帰を検討しますが、夫に反対されます。夫はシフトがない非常に不規則な職種のため、夫婦の時間がなくなるのを心配してのことでした。
社会復帰は諦めました。何よりも夫と家族を大事にしたかったからです。その後も癇癪が酷い長女と付きっ切りの生活が続きました。
当時は自家用車が一台しかなく、夫が通勤で使っていましたので、私はバスか徒歩が移動手段でした。公共の遊び場は徒歩でいける範囲になく、バスに乗る必要がありましたが、長女は癇癪が酷くよく泣きましたので中々利用できませんでした。
孤独感が強くなっていきました。
二人目を妊娠している間もそれは続きました。
ママ友が度々遊びに来てくれました。
夫の話しをすると、「旦那さんにもっとちゃんと言わないと、潰れちゃうよ。麒麟が我慢しているから上手く行っているだけで、大抵の家庭は崩壊すると思うよ」と言われていました。
私は幸せなのに、なぜそんなことを言われるのだろう? と疑問でした。
「夫は暴力を振るわない。癇癪も起こさない。不機嫌になることはよくあるし、そうなると何日も私を無視するけど、実父よりマシだ。夫は仕事をして疲れているんだから仕方ないんだ。私が我慢すればいい話。私はいい結婚をした」そう思っていました。
夫は一切手を貸さなくても、「子育て大変だね」と度々声をかけてくれました。実父には見られない気遣いでした。それで十分だと思っていました。
夫と気持ちがすれ違う
二人目の子どもが産まれても、家事育児を一手に引き受けていました。
夫の仕事の愚痴を聞く余裕がなくなっていきました。同時に私の愚痴も話せなくなっていきました。
夫は亡くなった先輩から手間がかかる車を譲り受け、大金が出ていきました。
仲のいい会社の同僚と旅行に行くといって、毎度10万程度の出費を繰り返し、大金がかかるバイクも欲しがります。さらに毎月10万近い小遣いがあっても足りないと言い、度々私と対立するようになりました。
冷静に家計の内訳を見せて話しをしましたが、夫がイライラを募らせていくのがわかりました。
夫が休みの日に、車に子どもを乗せて急いで買い出しに出ていました。夫は家で寝ているかゲームをしているか、一人で出かけていました。
夫が休みでも、不機嫌になられるのが怖くて頼ることができませんでした。
料理をしていたり洗濯物を干していると眩暈がするようになりました。キッチンの天板に手をつき、倒れないように注意しました。
視界が白く抜けることも出てきました。「貧血かな。季節柄、自律神経が乱れているのかな?」と軽く考えていました。
ある日買い出しに向かう途中、歩者分離信号に変わったばかりの交差点で信号を見誤り、赤信号で発進させてしまいました。
横断歩道には小学生らしき女児二人が渡っており、慌てて急ブレーキをかけました。
車は2m手前で止まり、全く当たりませんでしたが、女児たちは驚いて立ち尽くしていました。私は車を路肩に止めて「驚かせてごめんなさい」と謝りました。
自分がしてしまったことが怖くなり、動揺しました。今思えばこの時私はかなり疲れていて、まともな判断ができる状態ではありませんでした。
子どもをどうしても預けなければならないとき、夫ではなくママ友を頼りました。
滅多にないことでしたのでママ友は快く引き受けてくれましたが、本来であれば夫を頼るべき場面でした。
子どもの話しをしようとしても、面倒臭がられました。長女の激しい癇癪の話しや、店で20分近くひっくり返って泣かれ続けた愚痴も、「疲れてるから」と言われて言えませんでした。夫は仕事が忙しいと言いましたので、仕方がないと思いました。
夫の機嫌が悪い日は、作っていた弁当を置いて行かれるようになりました。
次女の世話で睡眠がとれない中作った弁当を置いて行かれるのは、堪えました。
それでも、夫は暴力を奮わない。大きな声で威嚇しない。実父よりマシ。だから私は大丈夫。と自分に言い聞かせました。
夫の行動はますますおかしくなっていきました。
ある日外出から帰った夫は、夕食の準備が整っていないことに怒り、車で出ていきました。
深夜になって帰宅すると、「金をくれ」と言います。5万の小遣いを渡して数日しか経っていないにも関わらずです。
何に使ったのかと聞くと、飲み屋に入って知らない男に声をかけられ一杯酒を奢られた。それを飲んだら途端に眠たくなって寝てしまい、起きたら財布から金がなくなっていたと言うのです。
それが本当なら警察に届けようと言いましたが、面倒なのでしたくない、忘れたいと言います。
また、酒を飲んで運転して帰って来たのかと聞くと、運転代行業者を使ったと答えました。金を盗まれていますしカードは持っていなかったので飲酒運転したのだとわかりました。
殆ど飲んでいなかったようですが飲酒運転は許せず、怒りを伝えました。夫は代行を使ったと最後まで飲酒運転を認めませんでした。
その日夫は苛立ちを抑えきれず、叫びながら家の壁を殴って穴を空けました。
私は長女と次女を寝かしつけながら、その音を静かに聞いていました。
夫にも周囲にも常々「いい夫だ」と褒めていました。夫は褒めて育てろと世間で言われていましたので、いいところを褒めていればきっと家庭に居心地の良さを感じてくれる。家庭が好きになってくれると思っていました。
しかし寂しさが募っていったある日の晩酌中、「夫は私の存在に安心してるよね。逃げていくかもって危機感持ってもらった方が上手く行くのかな」と冗談ぽく話しました。すると「仕事で疲れてるのに、家でも気を遣わなきゃいけないの?」と怒り出しました。
しまったと焦り「ごめんなさい」と謝りました。
次女を背負い、夫との晩酌の皿を洗いながら泣きました。
夫の不審な行動
夫が夜勤明けの日は、温泉スパに行くと言ってよく出かけていくようになっていました。
タオルを持っていくものの、乾いたまま持って帰っていました。帰宅してすぐに風呂に入るのも不審でした。
温泉スパに迎えに行っても、大抵そこに居らず、最寄りの駅にいました。
女か、パチンコかと疑うようになりました。
女性だとしても、不倫とは違うように思いました。夫の休みは非常に不規則でしたので、いつも合わせられるとは思えなかったのです。
しかしある時から、スマホを家の中でも持ち歩くようになりました。
それが二週間ほど続きましたので、これは黒だと思いました。
夫の裏切り
家族で食事の最中にもスマホの着信音が鳴ると手に取り、機嫌よく誰かに返信をしているようでした。
食後に夫が珍しく子どもたちを風呂に入れてくれることになりました。風呂に入ったのを見計らって、初めてスマホを見ました。
その時の話はこちらに書いています☟
要約すると、夫のパチンコ通いと風俗とキャバ通いが発覚して、ブチ切れにブチ切れまくって大暴れした話です。詳細が記事に書いてあります。人生でこれほどブチ切れたことはありませんでした。
私が我慢に我慢を重ね、冷静で理論的な話を繰り返してきたのに感情を爆発させて大暴れしたので、夫は相当な恐怖を味わったようです。
数か月してからも「あの時は恐怖だった」と手を震わせたことがあったのでよっぽど怖かったのでしょう。ギャップの効果は最強です。
再構築
その後は夫が平謝りで態度を一変させました。
☝こちらの記事を読んでいただけるとわかりますが、夫は夫で多くのストレスを抱えていました。
数週間に及ぶ長時間の話し合いや、私のフラッシュバックを支え続け、生活を改めた夫の努力によって再構築できました。
むしろその衝突があったからこそ、分かり合えたことが多くありました。
旅行代も小遣いも大金を欲しがったのは、パチンコ中毒に嵌っていたからでした。
毒親育ちが陥りやすい心境
毒親育ちが守りたかったもの
大揉めに揉めた後、夫と私は素直な気持ちを話し合いました。
その中で夫は「いつも正しいことを冷静に言う麒麟に、何も言えなくなっていった」と話しました。
私が夫を褒める件は、最初は気分がよかったけど、自分は「いい夫、いい父親」でいなければいけないと追い詰められていったと言います。
私がいい夫婦、いい家庭でいるためにしていた発言は、夫を追い詰めていました。
とはいえ、夫の不祥事の責任は夫にあります。
発覚当時は離婚することしか頭にありませんでした。安らげる家庭でないなら、要らなかったからです。
再構築するために夫が努力しているのを横目に、いつ別れてもおかしくない心境にありました。
家を建て替えるために頑張っていた貯金も(夫が使いましたのでそんなになかったけど)バカらしくなりました。
我慢して努力しても失う時は失うのだとわかり、どうでもよくなったのです。
ばかばかしくて「やはり私は家庭運がない」と殺伐とした気持ちになりました。
夫が家族を最優先するようになり、私の機微によく気が付くようになりました。
言いたいことがあるなら言ってと夫は求めました。
我慢していてもいいことはない。どうせ壊れるのなら言うべきだと、素直な気持ちを話すようになりました。
それは結婚前、自由に発言していた時の私の姿でした。
努力しなければ愛されない
私が夫と揉める前のことです。
父親から性的虐待と母親から姉妹差別を受けて育った友人が、パニックを起こして泣きながら電話をしてきたことがありました。
子どもの面倒を見ながら自宅で仕事をしていた彼女は、睡眠をとれない日々が続き無理をしていました。仕事を詰め込んだのは同業の夫でした。夫という身近な存在に追い詰められたショックから、パニックを起こしたのです。
辛い、助けて、死にたい、辛いと泣いて喚く彼女は、夫にはそれを言えずにいました。
夫は夫で多忙だったために、妻がどれだけ無理をしているか気がつかず、彼女も伝えられなかったのです。
彼女もまた、「頑張らないと愛されない」という根強い恐怖心を抱えていました。
彼女の夫は私の知り合いでしたので、「私が旦那さんに話そうか」と言うと、やっと少し落ち着きました。
「努力しないと愛されないと思い、知らず知らずのうちに無理をしてしまう。愛情を失うのが怖くて自分の心を壊してしまう。どうか彼女の話しを聞いてほしい」と彼女の夫に伝えたことがありました。
それと同じことが自分に起きているとは、全く気がついていませんでした。
人のことだとわかるのに、自分のことは渦中にあると見えないようです。
私は夫と揉めて初めて、自分が無理をしていたことに気づきました。
幸せだと思っていましたし、我慢をするのはどの夫婦にもあること、むしろ我慢をしないと夫婦仲は保てないのだと思っていました。
実際、多少の我慢が必要なのは確かだと思います。
しかし私は加減がわかっていませんでした。
私が努力しないと家庭は成り立たない。
私が努力しなければ家族という幸せは終わる。
そういう恐怖感が常にありました。
ママ友たちとの会話で、夫婦喧嘩をした話しを度々聞くことがありました。
夫が怒っていても、「どうせ帰って来るんだから」と放っておけるママ友たちに驚きました。凄い自信だと感心したのです。
それが愛されて安心して育った人と、そうでない私との違いだと気づいたのは、夫と揉めて暫くしてからでした。
毒親育ちが愛情を信じるのは、簡単ではないのだと知りました。
毒親育ちの思考から解放されるまで
「妻に弱音を言えない夫は不倫予備軍!?夫婦円満に必要不可欠なこと」の記事にあるようにお互いの気持ちをさらけ出しました。
お互いの誤解が解けると、夫は私や子どもたちへの愛情を、言動の全てを使って表すようになりました。
頑張っても意味がないと自暴自棄になった私は、身体が辛いときに助けを求めるようになりました。
「時には楽していいよね」と弁当や総菜に頼ることも増えました。節約ばかり考えず、使う時は使うようになりました。
頑張らないと愛されないと思っていましたが、私が頑張り過ぎないことが、夫の肩の荷を軽くして「許しあう」きっかけになりました。
夫は家族の時間を楽しむようになり、小遣い内でやりくりをして貯金ができるようになりました。
初めは夫の愛情表現に疑心暗鬼でしたが、一年、二年と続くと、「愛される、受け入れられるとは、こういうことなのか」と心が解ける感覚に陥りました。
第三子の三女を妊娠し、出産しました。夫は長女と次女の時が嘘のように子育てにも積極的に関わるようになりました。
夫も私も突発的な苛立ちを我慢することはありますが、お互いに「その態度はちょっと嫌」と伝えて溜め込むことがなくなりました。唯一無二の理解者になり、お互いがいない生活は考えられないと、恥ずかしがらずに伝え合うようになりました。
安心できる居場所ができました。
私が育った辛い環境は、今この幸せを感じるためだったのだと思っています。
毒親育ちが夫婦仲を保つために意識するべきこと
経験から、毒親育ちが意識しておくべきことをまとめました。
〇 家庭の形は家庭ごとに違うことを意識し、親と重ねすぎないこと
〇 育った家庭の癖や価値観が、知らずに身についていることを忘れないこと
〇 両親に似た自分を見つけても、恐れ過ぎないこと
〇 安心できる家庭が欲しいなら、自分がリラックスできる環境を作ること
私は両親を、私と夫に重ねてしまっていました。
品行方正で正しく、冷静であれば親のような夫婦にならないと思っていましたが、私が見るべきなのは両親の陰ではなく夫であることをわかっていませんでした。
父親の顔色を伺い、母親の機嫌を取っていた癖が「家族」というトリガーで呼び起こされていました。
毒親育ちは家族への恐怖心を抱えていることを、自覚する必要があると知りました。
両親に似た部分を自分に見つけると、怖くなります。
両親を反面教師にして自分を正すことは大切ですが、恐れすぎてはいけないのだとわかりました。
両親のようになりたくないと思っている時点で、両親とは根本から違います。一緒にいるパートナーも、親とは違う人間です。
恐怖は判断能力を鈍らせます。ちょっと「気をつけよう」と思っていれば十分だと感じました。
愛情は、無償ではないのは確かです。
でも頑張り続けても手に入るものではありません。
ほんの少し気遣い合うだけで、居心地のいい愛情を育てることができます。
無理をした努力は続かず、必ずどこかで歪を生み出します。
毒親育ちの得
今はすっかり夫とラブラブな生活を送っています。
だからこそ言えるのでしょうが、実は毒親育ちで得したと思うことがあります。
〇 家族は他人である意識を忘れず、気遣いができる
喧嘩のない、暴力のない、罵り合うことのない、裏切りのない家庭がどれだけ幸せなのか。「普通の家庭」がどれだけ恵まれているのかを知っています。
「普通」に幸せを感じられるのが最大の利点です。
また、以前ほどの極端な気遣いは減りましたが、今でも負の感情をそのままぶつけることはしません。
最低限の礼儀を持って言い方を考えます。
人は誰かが支配できるものではありません。家族は血が繋がっていても個であり、そういう意味からいえば誰しもが他人です。
他人同士が出会い、家庭を作る夫婦において、この感覚は役立ちました。
家族だと何を言ってもいいとぶつけ合う夫婦もいますが、私は親のそういった姿勢に苦しめられましたので、やはり最低限の気遣いは必要だと思っています。感情をどういった伝え方をするかという、加減の問題ですね。
私が普段から感情のままに夫にぶつけていたら、きっと今の愛情あふれる家庭にはなっていなかったでしょう。
育った環境に反面教師がいたのは糧になりました。
家族へのトラウマ
私の周囲には家庭へのトラウマを抱えている人が少なくありません。
結婚はしても子どもは作らないと決めている方もいます。
答えは人によって違います。
私の例が、どなたかの参考になりますように。