【毒親育ち】祖母と母と私。女三世代の拗れ方

これは私と私の母と、その母の、三世代の母娘の実話である。

関係はよくない。

母と娘の関係について、事実をただ書く記事である。

【毒親育ち】祖母と母と私

母は結婚当初から、度々実家に帰っていた。

私や弟が産まれてからも大型連休になると実家に帰り、丸々そこで過ごすのが決まりだった。
父はその間一人で家で過ごし、仕事に行っていた。

両親は喧嘩が絶えなかったので、母の息抜きになっていたのだと思う。

祖父母宅では、祖母と母はずっとおしゃべりをしていた。大人の話に入るなと言われていたので、どんな話をしていたのかはよく知らない。

祖父母宅にいる間、母は機嫌がよかった。私も母から理不尽に責められることも束縛されることもなく、楽しかった。

しかし自宅に帰ると、様子は一変する。
両親は毎日朝から晩まで喧嘩をしていたので、強い物音、怒号にまみれていた。

母は父がいない時間、私に当たり散らした。
支離滅裂な主張を並べて泣いて喚くので、私はたまらず、母の宥め役になって早く自室に逃れるよう努めた。

母は友人がおらず、近所付き合いも良くない。
誰かの悪口や支離滅裂な主張を並べて、私に当たる以外の発散ができなかった。

私は視界が白く抜けるようになり耳が聞こえにくくなり、皮膚の痛みを感じにくくなっていった。誰にも相談をしなかった。
このままでは生きていけないと思い、大学進学と共に家を出ることにした。

母とも父とも距離を置いた。

たまに母と会っても、相変わらず誰かの悪口しか聞かなかった。母が父と結婚したことも離婚できないことも、娘である私のせいだと言われた。母に会うたびに気持ちが落ち込んだ。

両親が祖父母や私、弟の前で酷い喧嘩をして、その後安否がわからなくなったことがある。
母が生存しているかを心配して、祖母は半泣きになりながら一人暮らしをしている私に電話をかけてきた。

私も同様に心配していたが、祖母を勇気づけるために明るく「大丈夫だ」と振る舞った。

両親と同居している弟にも連絡がつかず、弟の安否が心配で仕方なかったが、一人で実家を確認しに帰る覚悟もつかなかった。

数日後弟から連絡をもらい、皆の無事がわかった。弟は「酷い喧嘩だった」としか言わず、詳しいことは口をつぐんだ。一家の無事を祖母に知らせると、祖母は泣いた。
私は一気に白髪が増えて、白髪染めが必要になった。20代中盤のことだった。

弟と一緒に暮らそうと持ち掛けた。弟は乗り気だったが、弟から話を聞いた母が発狂して私に電話をかけてきた。「あんたの言葉は人を不幸にする」と叫んでいた。母は珍しく弟にも当たったようだ。当たられ慣れていなかった弟は怯み、「お母さんがあんな感じだから、家を出られない」と落ち込んだ声で私に告げた。

私はますます実家に帰らなくなった。数年の間、たまに親から電話が来る以外は連絡も取らなかった。
弟とは頻繁に連絡を取り、弟の通う大学の近くにあった私の家に泊まらせた。

数年後弟が就職を機に家を出ると言った時、母は拍子抜けするほどあっさりと許した。
私が弟を誘って同居するのは許せないが、弟が一人で住むのは異論がないらしい。

私は度々祖父母宅に電話をした。正月に顔を出すなどもした。近況を聞くためだった。
気性が激しい両親より、多少理屈っぽいところはあるものの理性ある祖父母が好きだった。

私が結婚したのを機に、両親とのかかわりが増えた。
それでも住居は車で3時間程度の距離を守った。

子育てが忙しく祖父母宅に顔を出せなくなってしばらくしたころ、祖父の体調がよくないことを聞いた。
食事の味がしなくなり、呼吸も苦しくなって急激に痩せたという。

私が夫や子どもたちと遊びに行くと、祖父は「楽しい」と言っていつもより食べた。大好きだった酒も少し口にした。
私と夫の仲が良いことがわかると、「男も女も、結婚相手で人生が決まる」と感慨深そうに話した。

祖父が亡くなった。最後は心筋梗塞だった。

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葬儀のために祖父母の三人の子どもたちが集まった。

長男、娘(母)、末の息子(単身赴任中で祖母と同居。私の叔父にあたる)と、その妻や夫(私の父)、子どもたちだ。

私の夫は母を嫌っている。母が私や父に当たり散らす姿を見ており、その内容も理不尽であることから不快感を感じていた。祖父母を慕っていたので葬儀には顔を出したが、両親とはできるだけ接触しないよう親戚の輪に積極的には加わらず、私は葬儀の手伝いと子どもたちの相手をした。

葬儀が終わっても孫の私に手伝えることはそう多くなく、子どもたちの学校や夫の仕事の都合もあって早めに祖父母宅を後にした。

祖父母宅は、高齢の祖母が一人で住むには不便なところにあった。

実際は祖母の末の息子が単身赴任で同居していたが、息子は家事をしなかったので、祖母は一人で暮らしているのと変わらない暮らしぶりだった。むしろ息子の分の家事が増えた不満を、離れて暮らす娘(私の母)に訴えた。

息子は自分のことは自分でやると言ったが、祖母はつい息子の家事までやってしまう。息子は休日に脚の悪い祖母を車に乗せて、買い物に付き合った。息子は息子で祖母を気遣っていたのだが、二人はかみ合わなかった。

物忘れが増えた高齢の祖母は、息子に注意されることが増え、一層不満を抱いた。
「息子は当てにならない。年を取ってもいいことがない」と頻繁に私の母に泣き言を言うようになっていく。

私の両親は祖母宅の隣県に住んでいた。
母は毎月一週間ほど祖母宅に泊まり、祖父の死後の手続きなどを手伝った。(息子はあてにならなかった)

母が祖母宅に通い少ししたころ、祖母と両親の同居話が持ち上がった。
祖父が建てた家をすぐに処分するのは忍びないと、祖母は一年はこの家で過ごしたいと言ったが、同居話には乗り気だった。

母は近所付き合いに不満を持っており、実際裏の家の住人に嫌がらせも受けていた。
以前より引っ越しをしたがっていたのだ。しかし経済的な余裕がないという理由から、父はいい顔をしなかった。

両親は裕福な祖父母から、何度も経済的な支援を受けていた。同居することになったら祖母の資金を当てにするだろうことは、簡単に想像できた。父も祖母の金で生活を潤わせながら「妻の母を面倒見る偉い婿」の名が手に入る。祖母との同居話は両親にとって都合がよかった。

私は両親との暮らしにストレスを感じて家を出たので、祖母に「両親の喧嘩は激しい。両親の気性も激しい。大丈夫か」と聞いた。「娘が一緒に暮らそうと言ってくれて嬉しい。持つべきものは娘」と全身で喜ぶ祖母は、私の問いに応えなかった。

祖母と母は仲が良いようだったし、母と私のようにはならないだろうと想像した。

母一人さえどうにもできなかった私が、母と父、祖母の同居を止められるわけもなかった。

両親が住む家はリビングが二階にあり、足を悪くしていた祖母には辛い作りだった。そのため両親が祖母宅に住むのかと思ったが、父がそれを許さなかった。父はプライドが高いのだ。

両親は県内のずっと不便な土地にある、程度のいい中古住宅の購入をあっという間に決めてしまった。マンションや一戸建てを購入した時も検討を重ねず決めてしまったので、同じことを繰り返しているのだろうと思った。

高齢で車の運転ができなくなった時や病気になった時など、先々のことを考えているとは思えない選択だった。

地盤や立地や便利さを確認したのかや、援助を受ける祖母の了承を得たのかを確認すると、「祖母を現地に連れて行ったところ、祖母が喜んで賛成した」と母は言った。祖母からの援助金は微々たるものだったとも、はっきりと語った。

それならば私が言うことはないと引っ越しを応援したが、後に、祖母は現地を確認などしていなかったし、物件の半額以上を祖母が支払ったことを知ることになる。

とんとん拍子に話が進み、祖父が亡くなって一年を待たずに同居が始まった。

両親は祖母宅にある上等な物を当てにして、自分たちの家具や家電を捨ててしまった。
物がなくて不便だという母の言葉を聞いて、祖母が引っ越しを早めたのだ。

しかしこれに母は過剰に反応し、引っ越し前から祖母を口撃するようになる。

それでも祖母は新生活に心を湧き立たせて引っ越しをした。

引っ越しをして三か月経たない頃、私は祖母と両親が暮らす新居に遊びに行った。
祖母の様子が気になったのだ。

すると母は祖母の悪口を言い続け、祖母は食卓についても両親の顔を少しも見ようとしなくなっていた。
終始無言。

祖母の部屋に入り、祖母と二人で話しをした。

詳しい話は別記事にまとめているが、要約すると祖母は私の両親から酷い嫌がらせを受けていた。

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両親は嫌がらせではないと主張するだろうが、祖母が気に病むのは当然の追い詰め方だった。

祖母は母について「あの子は狂ってる。話しを聞かない通じない。関係ない話を持ち出して泣いて喚いて、とにかくおかしい」と言った。それは私がずっと思ってきたことだった。

祖母は、私が運転する車で今すぐに前の家(単身赴任中の末の息子が住んでいる)に連れて帰ってほしいと言うが、時間にして往復5時間はかかる。私は帰路につくまで時間がなく、祖父母宅と自宅は別方向な上、両親の抵抗を振り切って私の子どもたちと祖母と荷物を車に載せるのは物理的にも難しかった。

両親が納得せず揉めることはわかりきっていたし、末の息子に連絡する時間もない。行き当たりばったりで連れ出すと、祖母の明日の生活もままならなくなる可能性があった。

祖母は泣いている。かつての自分を見ているようで心が痛かった。
すぐに連れ出せたらどれだけよかったか。

結局私は懇願する祖母を置いて、家に帰った。しかし心配で、何度も祖母や母に電話を入れるようになる。祖母は毎度電話先で泣き、その度に母に態度を改めるよう話したが、理屈が通らない言い分で正当性を主張するばかり。埒が明かなかった。

落ち込み悩む私を見て夫は心配し「あまり考えすぎないように」と声をかけた。母親と祖母は十分な大人であり、私にできることは限られていると話した。

祖母を引き取ることも考えたいと夫に話すと、「最悪の場合、それも仕方ない」と答えた。しかし一階に個別の部屋がないわが家の間取りは、足の悪い祖母に厳しかった。

数日後に祖母から、数ヶ月限定で元の家に帰らせてもらったと連絡を受けた。

末の息子(叔父)は私の両親が強引に同居を強行したことをよく思っていなかったうえ、祖母から聞いた同居後の所業に猛烈に腹を立てていた。そのため祖母に、施設に入居することを勧めた。祖母もあの家に戻るくらいならと同意した。

両親は祖母との同居を解消することに酷く反対したが、祖母が「住宅購入資金を返せとは言わないから」と言うとあっさり了承した。また施設に入ることについて、末の息子(叔父)が「ボケが進んできているようだから(嘘)施設が妥当」と説明すると、母は喜んだ。

息子の家族が暮らす北国の施設に入ることになり、あっという間に祖母は海を渡って行ってしまった。

私は息子の妻(私の叔母)に電話をして、両親の所業と迷惑をかけたことを詫びた。

叔母は私の母が叔母や伯母を酷く虐めていたことや、今回の中古住宅の購入が祖母の了承を得ないまま勧められていたこと、祖母の金に頼りきりだった両親について怒りを込めて教えてくれた。祖母のボケが進んだからと言って母が喜んだのは、それまで祖母に「借りる」という話しで援助を受けてきた額の返済を免れるからではないかと、叔母は言った。

母と娘は一心同体と思われやすい。叔母は当初、私にも相当な怒りを持っていた。
私は母に長く苦しめられていたことを伝えたが、詫びの電話を入れている身で自分のことばかり話すわけにいかない。叔母の言葉に頷き、謝ることしかできなかった。

叔母は母がおかしいことを知っていたが、ここまでとは思っていなかったと言った。私に「同居を止めてくれていれば、こんなことにならなかったのに」と話した。どうにもならない悲しみが襲った。

祖母は施設が快適だと連絡をくれた。
私からも祖母の携帯電話に電話を入れたが、出られないこともあるようで様子がよくわからず、頻度は減っていった。

叔母に様子を聞こうかと思ったが、また一頻り責められるのかと思うと勇気が出なかった。

あれから二年が経った2022年の年始。
祖母から電話がかかってきた。

祖母の元気そうな声にホッとした。

祖母と母は度々連絡を取っている。母は嫌がらせをした自覚がない。
祖母は母を警戒対象としながらも、話をするのだという。

「あの子は狂っている。昔はあんな子ではなかったはずなのに。人間としてどうかしている」と言った。

祖母が「息子の嫁(私の叔母)がよくしてくれるのよ」と母に告げると「嫁が姑に親切にするのは当然よ」と言い捨てたという。また、祖父母宅に残っている売れるものは業者に売るのではなく、自分が欲しいと続けたのだそう。それも、送料を祖母が負担して母の暮らす家に送れと言ったのだとか。

私はうん、うん。と相槌を打ちながら祖母の話を聞いた。
祖母が元気そうでよかった。祖母が母の事を悪く言うのは当然だ。祖母の鬱憤を晴らすためにも、話を聞くのがよいと思い、度々同意しながら聞いた。

祖母は母の悪口を一頻り溢し、電話を終えた。

本当はもう、母の口から出る悪口も、祖母の口から出る悪口も聞きたくなかった。祖母と私は母の被害者であり同士であるのだけど、どちらの口から出る言葉も私には辛かった。

心がすり減るようだった。

女三世代の拗れ方

祖母は少女時代に戦争を経験した。苦い経験もしているが基本的には守られて育っている。

祖父は戦争で両親を亡くしていたが何とか大学を卒業し、祖母と結婚。家庭を持った。
祖父は両親が遺した保険金を戦後大人にだまし取られ、人間不信に陥ったそうだが、理性がありながらも感情論者でもある面白い人物だった。

結婚後は祖母の父が遺した借金を祖父母が共働きで返済。海外勤務などを経て好景気に乗り、経済的には困らない生活をすることができた。祖母は中年になるころに仕事を辞めた。以来は専業主婦となり、噂話に花を咲かせるようになる。

母は共働きの両親に変わり、私の曾祖母(母の祖母)に育てられた。
兄と弟に挟まれて、随分と活発だったそうだ。

曾祖母が亡くなってからは祖父の転勤について回り、日本の各地を転々とした。

高校を卒業後美術の専門学校に入るが、ほどなくして親に断りなく退学届けを提出。
イラストレーターを目指して挿絵などのアルバイトをするも、実にならず印刷会社に就職。そこで父と出会う。

優しく面白い人だと惹かれて一年で結婚。母は父が初めて付き合う男性だった。

父は結婚当初から母の行動を制限するようになり、仕事を退職するよう求めた。

頻繁に喧嘩をするようになり、父は母に手をあげる。結婚後一か月で髪を鷲掴みにされて床を引きずられ、実家に身を寄せる。祖父母は離婚を進めるも決心がつかず、数週間で父から「風邪を引いた」と電話で連絡があり、帰宅する。以来、喧嘩、暴力、暴言、怪我が繰り返される。

マンションを購入。その際の資金の一部を祖父母(母の両親)に頼っている。

(父は癇癪持ちで地雷がどこにあるかわからないが、母もこだわりが強く融通が利かないため、喧嘩の原因はどちらにもあることが多い。また母の話は都合よく捻じ曲げられ事実と食い違っていることがあるので、母の話すことは鵜呑みにできない)

二年後に私が誕生し、さらに二年後男の子をもうけるが夫婦の関係は変わらなかった。

父の思い付きで(私の目には母も乗り気だったように見えたが、母は否定)一戸建てを購入することになる。資金をまた祖父母から得ている。両親仲は常に悪く、母は私にぶつけることで鬱憤を晴らす。

バブルがはじけて印刷会社が倒産同然になり、父は給料未払いが続いて転職。給料が減って生活が苦しくなる。

私は高校時代から学校の許可を受けてアルバイトをして稼ぐ。
母の当たり方はますますひどくなり、心身に不調を来すようになる。高校卒業を機に家を出ることを決める。

奨学金を受け、深夜のアルバイトで生活費や教材費を稼ぎながら大学生活を送る。足りない学費は、祖父母から両親が借金する形(一度も返済をしていない)で援助を受けた。弟も同様に奨学金を借り、学費の援助を受けている。

私は精神的に不安定な時期が長く続いた。芯が強いとみられることが多かったが、その実自己肯定感は非常に低かった。
社会人になり酷い虐待を受けて育った知人ができて、自分の経験を話すようになっていく。

今は結婚して子どもを育てる主婦になった。
未熟だが、できるだけ自らを客観視して生活することを心がけている。

悪口は聞きたくないと言いながら、ブログに鬱憤を綴ることで思考を整理する生活をしている。

それぞれの一生

祖母、母、私の一生はまだ終わっていない。

祖母と母。母と私の関係は現状とても悪い。
母が関係の悪さに気づいていないのが、また怖い。

なぜこのようなことになってしまったのか。

母と父の関係を辿り、同情したこともあった。
しかし子どもが親に同情して許してはいけないと、今は思う。

私が母から受けた多くのストレスを「仕方がなかった」と許してしまったら、私が母に似た行動を子どもにしてしまった時に、許されることを願ってしまうかもしれない。親が子どもに甘えると、子どもの人生を潰してしまいかねない。

憎み続けるのが辛くなったら、やめればいい。憎むことをやめることと許すことは同意ではない。
この人はこういう人だと割り切り、自分と乖離させればいい。

私は三姉妹を育てている。
私と子どもたちの関係がどうなっていくかはわからないが、生涯、家族でも最低限の礼儀は忘れないよう過ごそうと思っている。

 

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