子どもが遺伝性の病気を持って産まれた時、夫婦どちらからの遺伝か調べることがあります。
次に産まれる子にも、遺伝する可能性があるからです。
どちらかの遺伝かわからない場合もあります。両家で責任のなすりつけあいになり、揉めた例を知っています。
私には難病を持つ子どもがいます。
夫からの優性遺伝であることがわかっています。
夫は病気であることを知らずに、体質に悩みながら育ちました。
三女が異常を持って産まれたことで、夫の病気が発覚しました。
私と夫は遺伝に関して揉めたことがありません。
夫の経験が、三女の子育てに役立ちます。遺伝がはっきりしていると、利点がたくさんあるのです。
だからこそ過去にこのような記事を書きました。
しかし病気の経験がなく手探りの私は、たまに弱気になることがあります。
最近は度々落ち込み、自分の意気地のなさにうんざりしていました。
そんな中、一つの区切りともいえる経験をしました。
恐らく、しばらくの間は心が揺れることはないと思います。
以下は私がこのブログではなく、知人に向けたSNSにあげようと作った文です。
日記のような文章になっています。このブログに載せている記事に重複している部分もあります。
これが私の生の声なのだと、書いていて思いました。
私がブログを始めたのは、落ち込んだ時、誰かの体験談を探した経験があったからでした。
どなたかの参考になることを願って載せます。
語尾の調子が変わります。ご了承ください。
親から子へ病気(難病)が遺伝・初めての集団生活
2020年の春に、三女は幼稚園の年少組に入園した。
秋口から冬になるころ、三女は幼稚園のイベントで立て続けに怪我をした。
怪我をするのは三女の持病のせいであり、幼稚園に非は全くない。
三女は園での活動を酷く拒否するようになった。
教室に入るのも、工作をするのも、イベントでホールに入るのも、時には給食を食べることさえ拒否した。延々泣き続け、求めたのは「遊びたい」だった。
三女の病気は幼い頃に皮膚が傷つくほど、大人になっても繰り返すことになる。
怪我を避けるために、私は三女を積極的に公園に連れて行かなかった。親子広場は裸足にならなければいけない施設が多く、おもちゃの取り合いで手の皮が剥けることもあったため、それも避けた。
家には姉二人がいて、混ざって楽しく遊べていたから、それでいいと思っていた。
三女が幼稚園に上がったら活動には一切口を出さないと決めていた。
自身の体質を学ぶには、安全を確保した上で自由に活動させる必要があると専門医から言われていたからだ。
常時両肘両膝に保護材と靴下は必須だが、その他は水遊びの時にラッシュガードやウォーターソックスを必ず履かせるくらいで自由にさせた。
幼稚園の園庭で自由に遊べる時間、三女は先頭集団に混ざって飛び出していくと聞いた。
幼稚園のイベントで怪我が重なり、何度も皮膚が剥けた痛みを感じた三女は、「イベントなんてやりたくない。遊びたいんだ!」と訴えるようになった。
実際は理由を話してくれるわけではなかったので、担任の先生から状況を聞き、私が三女と話してわかったことだった。
幼稚園拒否が酷く園でも酷く泣き続けて活動にならなかったため、一時期休ませるほうがいいのだろうかと迷ったが、先生は「登園させてほしい。園が楽しいところだと感じてもらう必要がある」と言った。確かにその通りだと思い、ではどう楽しさを感じさせるかを考えた。
園で遊ぶ時間を確保できれば三女の希望の「遊びたい」が満たされるが、様々な経験をさせる園のため、ただ「園庭で遊ぶ」時間はそう多く取れない。先生の「三女ちゃんのバスコースは園に着くのが遅いから、着いたらすぐにカリキュラムに取り組まなければならず忙しい」という発言から、遊ぶ時間を確保するため、バス通園ではなく直接園に送ることにした。
それだけで朝1時間近く遊ぶ時間が確保できると知ったからだった。
病気の子どもと母の不安
初めての送りの日は、昇降口から入ろうとせず、20分近く格闘することになった。
同じクラスの女の子が「三女ちゃん、いっつもずっと泣いてるんだよ」と私に教えてくれた。
「家に帰りたい。ママと一緒にいたい」と私の足にしがみつく三女を見て、「一緒に帰ろう」と言いそうになった。もしかしたら私が甘やかした結果だったのか、公園で遊ばせなかったから三女が苦しんでいるのだろうかと色々な思考が巡った。
女の子が担任の先生を連れてきてくれたが、先生を見て三女は大泣きで暴れて転げ、全力の拒否。私にも見せたことがない暴れ具合だった。
担任の先生は三女と床に転げて、両手両足で羽交い絞めにする形で三女を抱き留めた。
私が留まっていては三女が諦めないので、先生に任せて園を後にした。
園をこれほど拒否している。持病の痛みを感じながら私を求めてるのに、私は突き放していいのだろうかと迷いがあった。
しかし私は三女とずっと一緒にいられるわけじゃない。三女はその体で生きていかなければならないのだから、乗り越えてもらうしかないと自分に言い聞かせた。
足の爪の欠損が進んでいて、「あーし(私)の爪はどこに行っちゃったの?」と聞かれて間もなかったこともあり、私の心は少々弱っていたと思う。
家に帰る途中、涙がこぼれた。
不安の解消の仕方
降園後はいつもの落ち着いた三女だった。
「園でいっぱい遊べるよ」などできるだけ楽しい想像ができる声掛けをした。
翌日は私が教室まで着いて行くとすんなり入ることができた。やはり早い時間に送り、遊ぶ時間を確保できると園の活動への拒否が減るようだった。
冬休みを挟み、一旦バス通園に戻したところ、園拒否が再度加熱。直接の送りを再開した。
その頃、園のクラスのグループLINEで連絡事項が回ってきたのをきっかけに「三女の持病による痛みがきっかけとなり、園で泣き続けてクラス活動に支障を来している。申し訳ない」と入れた。
すると「三女ちゃん頑張れ」と多数の応援をもらった。障がいを持つ兄弟を持つ保護者からは、病気を自覚し、精神のバランスの危うさを感じながら園生活を送った経験を聞かせてもらった。すごく温かかった。
早朝の直接の送りが数週間経つと、園での拒否が午前中だけになった。なぜか午後は素直に応じるという不思議。
さらに送りを続けると、たまに活動を拒否する程度にまで治まり、完全に拒否していた朝のマラソンカリキュラムも自ら走るようになった。
先生は「バス通園に戻しても大丈夫」と言ったが、三女の希望で二週間ほど直接送ることを続けた。
「この日からバス通園にしようね」と言い聞かせ、バス通園に戻した。
不安を夫に吐露する
病気としては過酷だけど、軽度で気を付ければ寿命を全うできると言われている三女を憂いすぎてはいけないと思っている。
手足の指の結合はなく、歯や髪の異常もない型である。がんの発症もない程度で、あるのは皮膚のズル剥け、水疱、爪の欠損、変形、それに伴う指先の変形くらいだ。
軽度であることに感謝しなきゃいけない。
わかっているのに、たまに、グッと辛くなることがある。
手の指の爪が欠損するかも知れなくなった時、またその波が来て、夫に「不安だ」と漏らしてしまった。
渦巻く不安
病気は夫からの遺伝だ。
夫はその母からの遺伝だった。珍しい病気のため、夫が幼い頃大学病院を回った時は診断に行きつかなかった。
三女が産まれるまで、夫は病気を知らずに育った。しかし一般とは明らかに違う自分の体に悩み、コンプレックスにまみれて生きてきた。
夫を悲しませたくなくて、病気がわかった時も前向きなことしか言わないようにした。
本心と外面のギャップが大きくて、辛かった。
その頃病気をしてリハビリ中だった妻を理由に、小室哲哉が不倫したニュースが取りざたされていた。誰かに逃げたくなる気持ちはよくわかった。でも小室哲哉の卑怯さに腹が立った。
どうしても耐えられなくなったら、夫に辛いと言おうと思った。
裏切りで深く傷つけるくらいなら、二人で向き合ってボロボロになった方がいい。
結局私は変形した爪を補正する技術を学ぶ道を見つけ、「私にもできることがある」と知れたことが救いとなり、はけ口となった。
それから4年近くが経ち生活にも慣れたが、爪の欠損が進むと、補正技術ではどうにもならないという事実に直面した。欠損した爪を復活させる医療は、世界のどこにもないからだ。
爪が何だよ。そんなこと気にしない子に育てればいいだけだ。
親が気にしていたら、子どもも気にするだろう。強くなれよ。くよくよする自分に腹が立った。
しかし、爪をコンプレックスにしてきた義母や夫の例を知っている。
私には爪がある。指の変形もない。
そんな私が「気にするな」なんてどうして言えるのだろう?それこそ無責任ではないかと思う。
どうして私は病気ではないのだろう。
私も夫や三女と同じ病気になりたいと思った。
それこそ、ふざけるなと怒られるかもしれない。
健康でいられることが、どれだけ幸せなことか知っているからだ。
そんな思考がただただ巡った。
遺伝性病気を持った夫の受け止め方
とにかく私は夫に初めて「不安だ」と漏らした。
それは三女の難病の定期健診で診察を待っているときにLINEで送ったものだった。
夫を悲しませるだろうと思った。それでも、送ってしまった。
夫を悲しませる、場合によっては「俺のせいで」と自分を責めかねないとわかっていたけど、受け止めて欲しかった。
少しして夫から返ってきたのは「頑張ろうね」だった。夫は自分一人で背負うこともなく、私を同士と認めてくれているのだと思った。
だから「頑張ろう“ね”」という呼びかけだったのだ。安心と愛情を感じた。
病院から帰宅すると、夜勤明けで家にいた夫は私とハグをしたがった。
ただただ安心した。
子どもの成長が親の心の支えになる
バス通園に戻して数週間が経った昨日、お遊戯会があった。
三女がこっそり家でお遊戯の練習しているのを見ていた。園のホールで三女の順番を待つ間、何度も泣きそうになって堪えた。
三女は可愛い衣装を着て現れた。
無表情だけど、一生懸命踊る姿を見て、「成長したな」と感じた。
そのころには涙はもう出ず、しっかり三女を見ようと思った。
子どもの成長を感じられるほど、嬉しいことはない。
憂いは無駄だと感じた。
味方しかいない
夫と私は同士で、かけがえのない味方だった。
三女は私と夫を心から求めている。
普段付き合いのない保護者達も応援してくれていて、先生も味方だった。
長女と次女も普通に三女の体を受け入れ、怪我をした時や風呂上りに手を貸してくれる。
私たちには味方しかいない。
三女は日常生活に混ざりながら生涯を全うできる。
こんなに恵まれていることはない。
幸せを見失ってはいけない。