毎年夏に放送される日本テレビの24時間テレビについて、「偽善」という声が毎年上がります。
“大金をかけて番組を作るならそのまま寄付をした方がいい。”
中居正広さんがテレビ番組で東日本大震災の寄付を呼び掛けた際、「偽善て言われちゃうかもしれないけど、そんなこと言ってられない時だと思って。」と発言しました。
偽善と言われたくない。避けたいという思いが見えました。
大々的に寄付をしたと公表する人を「偽善」だと叩き、公表せずに行動していた有名人には「何もしないのか」と叩き、現地でボランティアをする有名人を売名行為だと言う世間。
「偽善」と責める人の心理にあるもの。
難病を抱える夫と子どもを持つ私が、24時間テレビに思うこと。
これらについて考えたことを記します。
24時間テレビの演出と偽善
日本テレビの24時間テレビはチャリティーとして企画されています。
災害被災者や難病患者、身体障碍者への支援、寄付を目的に構成されています。
数年前までは身体障碍者にスポットを当てた涙を誘う演出が多く見られ、非難が多く上がっていました。
今年はコロナの感染防止のため演出が抑えされていたように思いますが、チャリティーランなどに対し、例年通り「偽善」という非難の声が上がりました。
偽善とは
広辞苑は「偽善」を以下のように説明しています。
本心からでなく見せかけにする善事
確かに、“やらされている意識”を持つ出演者の行為は、偽善と言えるかもしれません。
しかし本心と見せかけを、誰がどうやって判断するのでしょう。
そもそも「偽善」は悪いことなのでしょうか。
私は妊婦時代、電車の席を譲ってもらったことが何度もあります。
譲ってくれるのは多くが若い男性でした。
彼女を連れている方が多かったです。
彼女の前で格好いいところを見せたいのかな? と思いました。
そこに非難はありません。
微笑ましかったし、貧血が酷かったので本当に助かりました。感謝の気持ちで一杯でした。
彼の行動はとてもありがたかったです。
彼女もそんな彼氏を誇らしく思ったでしょう。
それが見せかけかそうでないかは誰にもわかりません。
仮に見せかけであれば「偽善」となるわけですが、行動を起こすか、見過ごすかは大きな違いがあります。
自分を良く見せるために、持病のある人や障害のある人を利用する人が少なからずいるのは確かです。
その積み重ねで人間不信に陥りそうになったことがあると、年配の難病患者から聞いたことがあります。
「偽善」を受ける側が非難するのはわかります。
やはり傷つきますから。
しかし何の行動もしていない傍観者が、他人の行動を非難できるものでしょうか。
障がい者や難病患者は見世物なのか
私は3年前に末の子どもを産み、その子が先天性の難病を抱えて生まれてきたことで夫の難病も発覚。“難病患者の妻、親”になりました。
“病気を抱え、ハンデがある”
当人にはそれが日常であり普通です。
先天性の場合はそれ以外を知りません。
普通に生活したいだけなのに、気持ちは普通の人と変わらないのに、「可哀想な人」「普通ではない人」と扱われると、疎外や孤独を感じます。
障がい者や難病患者にスポットを当て“涙を誘う演出”は、そういった目を助長させます。
芸能人が腫物に触れるように丁重に障がい者、難病患者を扱っている。
こういう人たちが頑張ることは特別なんだ。
自分たち(健常者)とは違うんだ。
関わって問題が起きてしまったら責任が取れない。
手助けを常に求められたら自分の生活が困る。
だから
あまり関わらないでおこう。
仕方ない、自分の生活を守るためだから。
ハンデのある人と仲良くしている、或いは手助けしている友人知人がいると、関りを避けている自分とのギャップを生じさせ、罪悪感が芽生える。
自分らしい生活をしているだけなのに、なぜ罪悪感を感じなければならないのか?
やるせない思いが怒りを呼ぶ。
そして友人や知人(有名人含む)を
偽善者。
いい人ぶっている。
と非難し、ハンデのある人には、
助けを借りることが当然と思っているんじゃないの?
と非難して自分の行動を正当化させる。
こういった連鎖を呼ぶように思います。
難病の子を持つ私が思うこと
24時間テレビに疑問を感じているのは確かです。
世の中には大変な病気や障がいがたくさんあります。
難病は取り上げられやすいですが、目に見えすぎる病気だと、刺激が強いという理由で取り上げられません。
病気や程度によって選別されるチャリティーなんですよね。
沢山の人たちに抵抗なく観てもらうため、仕方のないことなのはよくわかるのですが。
その選別された子を「感動」ありきで演出されるのは見世物のようで、若干の抵抗を感じるのです。
24時間テレビ全体に「偽善」を訴える方は、この演出に疑問を抱いている方が多いように感じます。
しかし、24時間テレビがあることで、助けられていることも多くあります。
メディアの予算・サポートの意義
難病などハンデがある子は、新しいことに挑戦しにくい場合があります。
体の心配やサポート体制から、どうしても制約が出てしまうからです。
それを番組が助けてくれるのはとてもありがたいことです。
病気の認知度の向上
また、テレビで大々的に取り上げることで、稀少難病の認知度が高まります。
末っ子のように日本に1000人程度(20万人に一人)しか患者がいない病気の場合、一生のうち一度も同じ病気の患者と出会わないことがあります。
総合病院の医師でさえ、病気を見たことがない場合もあるのです。
テレビを通じて、同じ病気の子がいる、同じように悩みつつ頑張っている親がいる、他にも同じ病気の人がいるんだと知れることが、大きな力となります。
認知度向上で差別が減る
末っ子の病気は認知度が低く、患者会が認知を広げようと活動をしています。
目に見える病気、そうでない病気それぞれに、理解を得たいポイントがあります。
末っ子の病気の場合、朝晩包帯を替えていても、体液が染み出し汚れてしまいます。
そのまま電車に乗って通勤、通学する患者もいます。
汚い、移ると避けられることがあります。健常者は、いつまでも治らない皮膚を不思議に思うでしょう。
病名を言ったところで、知る人は殆どいません。
痛みと戦い、病気の理不尽と戦いながら、人に避けられることで心が大きく傷つきます。
認知が広がり、移らないこと、こういう症状を他にどうすることもできないことを知ってもらえれば、避けられることはなくなるでしょう。
これが求めている認知です。
たまにニュースの一端で病気が取り上げられますが、認知の効果は薄いです。
テレビ番組の力は非常に大きいものです。
演出に多少の疑問は感じますが、末っ子の病気や、同じように認知を求めている病気を取り上げて欲しいと思っています。
障がい者も普通の一人の人間
盲目の芸人濱田祐太郎さんが第16代R-1グランプリを受賞されました。
この方を知った時、これだよ!! と思ったのを覚えています。
盲目と聞くと、「普通の暮らしができない大変な人」と思われる方もいるでしょう。
障がい者ならではの話しを笑っていいの? と戸惑われた方もいるようです。
しかしどんな障がいや病気を持っていても、普通の日常があるんです。
感じ方に大きな違いはありません。
障がい者と健常者が対等であることを知る番組に
耳が聴こえない夫を持つ健常者の知人が、手話で大喧嘩して手を激しく動かしたために腕がちぎれそうになったと言います。
私は笑いましたが、笑ってはいけないと思う人もいるようでした。
彼女はその後夫と離婚しました。
最期まで、彼女は夫と対等でした。
健常者と障がい者の垣根のない普通の日常が、もっと広がるように祈っています。
体が普通とは違っても、「一線」を引かないでほしいと思います。
誰にでも日常があり、心があり、皆、大きくは違いません。
大変なことが健常者より多いのは確かだけど、だから不幸になるわけじゃありません。
守ってもらう、助けてもらうだけの存在ではありません。
健常者と障がい者が共に生きる日常を楽しく知れる番組になってほしいと願います。